神様とは、あらゆる命を生かそうとする、天体の運行も含めた天地自然の大きな働き、そして自分の意思では制御できない心拍数や臓器の動きなど、我々の命を生かそうとする働きを神様と捉えています。
この働きは人間が信の心を持って意識を向け、生き方・考え方を整えようとすると、その人や周りの人も含めて立ち行くような働きをすると感じることが非常に多いです。
「信の心を持って意識を向け、生き方・考え方を整えようとする」というように、自分は何もしないのではなく、多くの人が当り前に考えている恩恵に意識を向け、全体が調和するような生き方
①不平不足におかげ無し、
②喧嘩口論で勝ったらおかげを落としたと思え、
③自分のことはあとにしてまず人のことをしてあげなさい等)
を心掛けるように、決して自分は何もしないでお願いばかりというのではありません。
さて、「信の心を向ければ」の信の中身は人それぞれですが、私の場合は母親から受け継いだ「せめて…」「せっかくだから…」という思いも信の一つとして毎回ではなくても心には留めています。
○本部大祭参拝時の体験
今月10日(日)に金光教本部の大祭に参拝した時のことです。今回も通常便(新大阪駅17:37分着)の他に、祭典後の清掃→教主のお退けお見送りをしてから帰る便(同駅19:25着)がありました。後便がなければ検討の余地はありませんが、あるなら「せっかく」なので副教会長とともに後便を選びました。
今回は参拝者がいつもより少なく、お届けに待つ時間がいつもは60-75分かかっていたのが25分で終わり、せっかく」なので早めに祭場へ行って前方の席に座りました。おかげで後部なら聞こえにくい講師の話も非常によく聞くことができました。
大祭が終わってからは復元された教祖のお広前→教祖奥城へ参拝し、教祖奥城では祖母の命をつないでいただいたおかげで私が存在していることへのお礼を心の中で申し上げ、続いて坂道を上って母方の奥城→歴代教主奥城へ向かいました。人間の本能は生来、怠け者なので、途中、疲れを感じて引き返そうと踵を返しましたが「せっかく」なのでお参りすることにしました。
母方の奥城の前では、祖父母、伯父・伯母の名前を順番に心の中で呼びながら、ここまでのお礼と今後の展開をお願いしました。亡くなった親先祖を亡き者にするのと生きた働きとして心を向けるのとでは、精神に与える影響には大きな差が出るような気がします。
そして、歴代教主奥城から境内へ下りると突然ふと身体が急にまるで両肩から背中にべっとりまとわりついていたものが完全に取り除かれたように軽くなっていることに気付きました。
こんなことがあるのかと思うと同時に、「せっかくだから」の思いに感応してくれたのかと直感しました。1週間が経過した今も同じです。
私と同じような場合、かなりの手間と時間を掛けて治療をされるか、そのまま重苦しいまで過ごすのが一般的であると思います。治療も良いですが、併せて身体の不調は命を生かそうとしている働きに解消していただく方法もあることをお伝えしたく、ここに取り上げさせていただきました。
6歳の娘の咳が半年以上も続いていることに対して、私もすぐに思い浮かぶのは病院しかないぐらいですから理解しがたいかも知れませんが、自分を生かそうとして働いている姿に意識を向けてみる価値はあるかも知れません。自分がいま生きているのは薬の前に食べ物があり、治療の以前に臓器が動いています。お水もコップに入れて片手で飲むより、両手で「いただく」気持ちになれば何かが変わるかも知れませんね。何故なら、享受している恩恵を当然視するのと有難くいただくのとでは、明らかに後者が信(まこと)ですから。
