(前提)
金光教の扱う内容は非常に幅広いため、同じ金光教の教師でも、どこを重視するかによって説明の仕方は異なります。
以下は、当教会長が理解している金光教の姿を紹介したものです。
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(目次)
| Ⅰ概要 | 起源 |
| 特徴-取次(とりつぎ) | |
| 目的と存在意義 | |
| 何を大事にしているのか? | |
| 各教会の成り立ち | |
| 社会問題にもなっているお金と束縛に関して | |
| 公的な活動 | |
| 宗教的勧誘がなじまない理由 | |
| Ⅱ背景(詳細説明) | どんな神様? - 農夫の体験 |
| 特徴 - 取次の宗教 | |
| 金光教の教え(要点) | |
| 金光教の教え(参考例) |
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(起源)金光教は教派神道の一つで、安政6年(1859年)に成立しました。
その内容は、一人の農夫の体験に基づく生き方が、そのまま宗教として形になっています。
(何をするところ?/ 特色)金光教では、参拝者と取次者(宗教者)との一対一の対話(「取次(とりつぎ)」)を基本としています。
参拝者の願いを神様に取り次ぎ、また神様の願いを参拝者に伝えることが中心の営みです。
農夫の体験から、心が和らいだとき、あるいは信(まこと)の心を自覚したとき、多くの場合、難儀な状況が立ち行くことが分かりました。
「立ち行く」とは、願いがかなうこともありますし、問題を苦にしなくなることでもあります。
そのため私たちは、参拝者がそのような心になれるよう、まずゆっくりと話を聞かせていただき、状況に応じて神様の願いをお伝えしています。
苦しいとき、人は「コップの中の水が半分しかない」と嘆き、将来への不安にとらわれがちです。
しかし参拝や取次を通して「まだ半分もある」と気づかれると、心が和らぎ、事態が好転するきっかけになることが多くあります。
金光教では
「おかげ(神様の働き)は和賀心(和らぎ喜ぶ心)にあり」
と考えています。
また、人間は皆等しく神の氏子であると考えますので、他宗教を信仰している方であっても区別することはありません。
(目的/存在意義)金光教の目的は、私たち一人ひとりが「○○あっての私、私あっての○○」という生き方に基づいて日々の生活を送ることにあります。○○に入るものは無数にあります。
このような生き方を通して、自分自身だけでなく周囲の人々も立ち行くようになり、結果として平和で心豊かな社会づくりにつながると考えています。
教会では、そのことを参拝者一人ひとりの状況に応じてお伝えしています。
(何を大事にしているのか?)宗教によっては、教義や教典を実生活よりも重視する場合があります。
しかし金光教では、宗教のための宗教ではなく、
「参拝者が立ち行くこと」
を最も大切にしています。
例えば、原子力発電の問題を考えてみます。
効率的な発電や脱炭素という観点では利点がありますが、事故が起きれば人が住めなくなるという問題もあります。
金光教では、特定の立場を強く主張することはあまりありません。
なぜなら、もし反対の立場を表明した場合、そこで働く人やその家族の生活が立ち行かなくなる可能性があるからです。
また、
「輸血はだめ」
「薬の服用はだめ」
「中絶はだめ」
といった教義を持つ宗教もありますが、金光教ではそのような禁止はありません。
判断の軸は常に
「本人や家族が立ち行くかどうか」
にあります。
「立ち行く」とは、不安や心配にとらわれず、心が助かった状態で生きていくこととも言えます。
(各教会の成り立ち)
宗教によっては、教団が費用を出して教会を建て、そこへ宗教者を派遣する場合があります。
しかし金光教の場合、全国に約1500ある教会は、すべて自発的に生まれています。
人が助かる場所をつくりたいという思いから、個人の費用で設立されてきました。
そのため教会建物の様式も、民家型、神道風、洋風など実に様々です。
このように、束縛が比較的少ない宗教の一つとも言えるでしょう。
宗教者の個性が現れやすいため、自分に合う教会を自由に選ばれるのがよいと思います。
(社会問題にもなっているお金と束縛に関して)
金光教の教会は、難儀な人に助かって欲しいと願って御用をしているのであって、金銭を目当てに御用をしているわけではありません。お供えは、願いが叶って、あるいは助かったという実感が得られた時に、心まかせにされるのが一番だと思います。
人を雇って給与を支払う余裕がなく、教会家族だけで運営されている教会がほとんどです。この事実からも、お金と束縛に関しては懸念するには及ばないです。もし不信感を抱けば、もう行かなければ良いだけです。そもそも金銭目的なら、教会の外で働いています。
束縛があるのは参拝者にではなく、宗教者にあるだけです。金光教のことを理解していただくためにお伝えしますと:
①神を商売にするな(=教会でモノを売って利益を得るようなことはするな):金光教にも教,典(B6判で957ページ、約3千円)がありますが、豊中南教会で過去10年間に購入した人は1人だけですし(←強制なし)、申し出があった場合にこちらの購入価格で(=私は利益・手数料は取らない)買っていただいています。
お札(ふだ)やお守りの販売もありません。理由は、「神を商売にするな」以外に、おかげ(神様の働き)は常日頃の信心から生まれるのであって、お札やお守りからご利益が得られるわけではないからです。目の前のご利益やならお札やお守りより、毎日頂いている天地の恵み(お米や野菜などの食べ物)です。
②寄進勧化はするな
③お供えした人の名前を張り出すな
神様への純粋なお供えが、自分の名前をひけらかしたいという心になりかねないからです。また、張り出した名前を見た別の人が、神様への純粋なお供えではなく、あの人がしているなら自分もしなければならないというような心が生まれる可能性があり、そして最も大事なことは、お供えできない困窮した人が参拝しにくくなるからです。
宗教者に対しての束縛は以上で、それ以外は宗教者に対してもゆるい宗教だと思います。
(公的な場での活動)
①ラジオの長寿番組「金光教の時間(朝日放送ラジオ):1951年11月 – 放送中 / 71年5か月」があります。これは布教目的というより、聞き手が話を聞いて心が和らぐ、心が助かることを目的としています。
②教誨師。令和4年5月の時点で62名の教師が奉仕活動を行っています。
③本が読みずらいという人に、1万冊以上の点字/点訳を奉仕でさせていただいています。
④災害救援活動や、神様へのお供え物をお下げして社会的弱者の救援に従事されているNPO法人に定期的にお届けする活動もしています。
(勧誘が馴染まない理由)
昨今、インターネットの普及で、訪日外国人が「日本のこういうところが世界に広まれば、きっと良い世の中になるのに」という声が聞かれます。
例えば:
- 落とし物の財布は、自分の物にせず警察へ届ける。
- 乗車の際には整列し、下りる人を優先にして順に乗車する。
- ゴミは街中に捨てない。ゴミ箱に入れるか、ポケット/カバンに入れて持ち帰る。
- Made in Japanの製品。一つひとつ、見えないところまで完璧に作ろうとする精神。
このような行動規範が人に強制するものでもなければ、意図的に宣伝して広めることでもないのと同じで、金光教の信心は人に強制したり、そもそも意図的に布教するような内容ではないからです。
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以上が概要です。以下では、もう少し詳しく、背景も含めて理解されたい方に紹介致します。
どんな神様?:農夫の体験
神様はいる・いないの問題ではなく、以下のような働きを神様の働きと捉えています。
【神様の働き①】人間の信の心に感応して働く
農夫は自らの体験を通して、神様は人間の心の向き、とりわけ和(やわ)らいだ心、信(まこと)の心に働くことに気づきました。
信の心を理解していただくために、少し長いですが具体的に紹介致します。
農夫自身、平素から神仏への祈願は怠らなかったにもかかわらず、長男を3歳で亡くします。
それから6年後、生後8か月の長女が急病にかかった時には医師を二人も呼び、親戚や近所の人たちが集まって神々へ祈念を凝らしましたが亡くなりました。
さらに2年後、7歳の二男が高熱を発したた時には、再び親類や近所の人たちが寄り集り、今度は裸参りまでして懸命に神仏へ祈願しましたが亡くなりました。
当時は、このような不幸が続くと金神(こんじん)の祟(たた)りであると考えられ、厄除けをしたり、神棚に金神封じ(=金神を追い払う)の祈念をするのが一般的でしたが、農夫はたたり神でも神様なので避けるのではなく丁寧に拝礼し、祈願を捧げました。現代に置き換えると、「神などいるものか」と怒って信心も止めているところでしょうが、それでも農夫は「神様は神様」と考えていたわけです。←信(まこと)の心は通した。
三人の子供を亡くして4年後、農夫は42歳の厄年を迎えます。年明け早々、厄晴れ祈願をするため、吉備津神社(岡山県)、沼名前神社(岡山県)へ、それぞれ片道30キロの道を歩き、入念に祈念を凝らしました。
あとで分かったことですが、この農夫の真摯(しんし)な姿(=信の心)を神様は見ていました。
そして、その年の4月には、農夫自身が高熱を発して喉(のど)が腫れあがり、湯水は通らず、言葉も出ず、床に伏します。農夫が寝ている隣の部屋では、霊感のある修験者(しゅげんじゃ)を先頭に親類が集まって祈願しています。すると、修験者に神がかりがあり「金神に無礼している」と語気も激しくお告げがありました。その場にいた岳父は、農夫の日頃の言動から無礼などしているはずがないと反論し、修験者についた神様に食って掛かります。
その問答を隣の部屋で聞いていた農夫が「(神様に向かって)何てことを言うのか」と思った瞬間に、今まで塞がっていたのどが開け、ものが言えるようになりました(←信に感応)。そして修験者に憑(と)りついた神様に対し、「所詮、人間のすること考えることだから、神仏に対してどこで無礼なことをしているのかわからない」と詫びた(←これも信の心)ことで、病状が一気に快方に向かったという体験です。
【神様の働き②】天地自然の働き
その後、農夫は竹の生長を観察することで悟りを得ます。竹は春になると大地に芽生え、日照りが続くと枯れて死んだかのように生長が止まりますが、雨が降ったあとは急激に生長を遂げます。
これは竹に限らず、動植物をはじめ人間もみな、自らの命を生かそうとする働き(体の臓器は生きようと働いている)を持ちながら、月や太陽の働き、そして大地・降雨など自然界の様々な働き(恵み)を受けて生きています。農夫は、この当り前にも思える働きの総体(すべて)を神様の働きであるととらえました。
以上のように、人間の信の心に感応する働きと、命を育む天地自然の大きな働きを併せて天地金乃神(てんちかねのかみ)と呼んでいます。
なお、金光教では天地金乃神の他に生神金光大神というのもあります。生神金光大神は次の「神様の働き③」で述べますが、農夫にそなわった人を助ける働きのことです。
【神様の働き③】我々人間も神様の働きの一部を潜在的に具(そな)えている。
やがて「この農夫に頼めばご利益が得られる」との噂が近隣住民に広まり、祈祷のお願いに次々と人が来るようになりました。
そして、農夫が参拝者の願いを神様に取次(とりつ)ぎ、助けることを繰り返す中で、農夫自身に人を助ける働きが生まれます(「助ける」という言葉は「立ち行く」と表現した方が正しいかもしれません)。そこで気づかれたのは、人を助ける働き(=生神の働き)は農夫自身が特別な存在だから持っているのではなく、我々人間には誰でも潜在的に持っているということです。それは自分自身の病苦であれ、知人の悲嘆であれ、難儀している状況の立ち行きを自ら願う/頼むことで神様の働きを現わす可能性を潜在的に持っているということです。助かりの対象が自分自身から他者に向かっている時、大抵の場合、自分は立ち行いています。金光教の取次では、参拝者にそなわっている生神の働きを引き出そうともしています。
以上をまとめてみますと:
万物を育(はぐく)む無限の働きは、人間の信の心にも感応して働きます。天地自然の働きが調和する方向に働くように、人間の立ち行かない混沌(こんとん)とした状況は、その人の信の心に応じて調和する(=解決する)方向に働くということです。
つまり、神様はいる・いないの話ではなく、このような働きを神様と呼んでいます。
金光教の特徴 - 取次の宗教「話を聞いて助かる道」
ついに農夫は神様から「農業を辞めて、難儀に困っている人の願いを神様に届け、話を聞かせて助けてやってくれ」と頼まれます。この頼みを受けて金光教が始まります。
海外の宗教のように一同に会して祈りを捧げ、宗教者の話を聞く宗教が多いです。金光教でもそのような日がありますが、基本はこの農夫にならって参拝者の話を聞き、参拝者と一緒に手を合わせ、参拝者自身から信の心が引き出せるように(少なくとも心が軽くなるか、和らいだ心になれるように)話をしています。
ただ、幸せの様相はどれも一様に見えますが、不幸や悲しみの度合いは底がないぐらい深い場合が多いです。このような参拝者には、初対面でいきなり以下のような話をすることは控えて、ただ心の重荷を受け取らせていただきたいと心を向けるだけの場合が多いです。
①で「(祈願する姿を)神仏は見ていた」とあるように、神様の方から一方的に助けることはできず、あくまで人間の信の心があって初めて働きが生まれるという神様です。神様が働くには(ご利益を得るには)、和らいだ心、信の心が大切ですが、苦難の渦中にいるとどうしても悪い点にばかり目が行き、良い点には気づかないケースが多いです。不平不足・不安におかげはありません。そのために話をしています。
「確かに、そうか」と思える心になられた時には、道がつく場合が多いです。
コップの水が半分しかないと思い込んでいるより、話を聞いて「半分もあるのか」と気づいた場合の方が、願いが叶う(=神様が働く)場合が多いです。少なくとも、不安は神様(宗教者)に預けて帰ってください。
「神様は、人間の和らいだ心、信(まこと)の心に感応する」わけですから、この病気が治るでしょうか?という問い自体、神仏が頼りないと思っていることの裏返しですから「何としても治して下さい」と頼み込む気持ちが大切でしょう。そして、仮に3回大きな治療を受けて快方の兆候がなくても「いままだ自分は呼吸もできるし、生きている」ことと確かめ、身体の中では自分を生かそうとする働きがあることに手を合わせる心も大切だと思います。
さらに、いま当り前のように受けている治療は、2百年、3百年前であれば、国王や皇帝でさえ受けられませんでした。この事実一つに対して、もっと驚いても良いと思います。そして、こんな治療が受けらることへの喜びや、先人の功績へのお礼の心も大切でしょう(麻酔のない外科手術を想像してみて下さい)。
さらに言えば、あまりに当り前に考えている、いま普通に呼吸ができていること、身体の他の臓器が正常に働いていることへのお礼の気持ちもです。来週、大きな手術を受けるけど、確かに今、呼吸ができているし、昔の皇帝や大金持ちでも受けられなかった治療が受けられると思えた時には、すでに身を任せた状態で和らいだ心になられていると思います。
このような時、ご自身を生かそうとする働きと、医者・看護師・関係する様々な人の中にある働きが呼応して不思議な働きが生まれることが多いです。例えば、医者が見落としていた肺の影を、レントゲン技師が気に掛けて発見し、医師に伝えて早期発見ができたことなど。
なお、神はいる・いない、信じる・信じない以前の問題として、人間の体内では無数とも言える酵素/タンパク質が正常に作られ、また、癌の原因にもなる正常でない細胞は夜に寝ている間に修復されますが、不安やストレスを抱えた状態が続くと自律神経が乱れてしまいます。
自律神経の乱れはこれらの正常な働きを阻害して万病を引き起こす原因にもなります。古人の「神仏に身をゆだねる(=心配や不安は神仏に預けてしまう」という言葉は、自律神経を整える上でとても大事な人類の知恵のように私には思えます。
金光教の教え(要点)
「人間が生きること」より教えや教義を優先し、教えを強制する宗教もありますが、これも金光教は真逆です。
農夫が参拝者に話した内容(言行録)がそのまま教典になっていますが、農夫はその時のその参拝者の状態を見て、参拝者が立ち行くために話をしています。そのため、同じ教えでも、この人には言えても、あの人に言うのは不適切なこともありますし、あまりに凄惨な不幸なら、話を聞くに留めて、ただただ参拝者の立ち行きを一緒に願うでしょう。このことを前提に、以下、参考までにお話します。
教えの目的は「それぞれの人生が立ち行くこと」にあります。そのための根幹となるのが「我々はお世話になって生きている」「○○のおかげで自分はある」という考えです。
○○に当てはまるのは、実に無数にあるでしょう。例えば、正常な天地の働き、食べ物がなければ生存できないですし、親先祖がいなければ今の自分はありません。自分は親に捨てられたと言っても、乳児期・幼児期に誰かが世話をしてくれています(一人で食べることはできない)。鎌倉時代と比べて亡くなる確率がはるかに低くなったのは、暴風雨でも飛ばない住居や発達した灌漑設備、多くの人が罹患する病気には薬や治療法があるという、先人たちが築かれた文明のおかげでもあります。労働により生活費が得られるのは、働けるだけの健康な身体があり、雇ってくれる人があり、買ってくれる/利用してくれる客がいるからです。
このように当り前のことを「○○のおかげで」と考えるのが金光教の信心ですが、宗教を抜きにしても「○○のおかげで」と考えるのが最も精神を安定させます(←和らいだ心)。「おかげで」というのは恩を感じるわけですから信の心の現れです。
もし、「与えられて当然」「できて当然」と考えると、与えられない時/正しくできない時に、精神的なストレスが生じます。このストレスが何日も続くと、精神だけでなく、胃腸をはじめ身体の疾患を引き起こしてしまい、さらに、その姿を見ている周囲の人も巻き込んでしまい、もし10人のうち5人は「それは仕方がないで」と考えるようなことに、怒っていれば攻撃を向けられた人も立ち行かなくなります。
逆に、当り前のことを当たり前と考えずに「あなたのおかげです」と言われれば、言われた相手の人生は豊かなものになります。例えば、お金を払って何かをしてもらった時、当り前ならお礼の言葉は出てこないですが、わざわざ自分のために時間を割いてしてくれたと思えばお礼を伝える時の顔の表情は自然と変わってきます。
金光教の教え(参考例)
(1)山にこもって断食なんかせず、妻の作ってくれた食事が仮にまずくても有難く頂くことが修行です。
私の場合、妻が学校教員(通勤片道1時間40分)をしているため、平日は私が教会の御用と併せて家事をさせていただいています。1歳と3歳の子供の面倒をみていると毎日が一息もつけないため、夕飯の後片付けの終わり頃には「世の女性はえらい」と思う一方で、はじめの頃は時に不満が出そうになることがありますが、それを口に出しては家庭が立ち行かなくなります。そんな時、これが修行!と自分に言い聞かせながらガスを抜いています。教えは、精神が乱れそうになった時に役に立つと実感しています。
もし、掃除・洗濯・調理・後片付けのうち、相手がするのが当り前だとして、自分は全くしないのであれば、週に1ー2日でも、自分が代わりにさせてもらうのも「家庭が立ち行く」上では大事かも知れません。私の場合、日曜日の夕飯の片づけを妻がしてくれるだけでどれだけホッとすることか。
神様の働きや神様の心を人間もそなえていますが、不満に思わないというのが神様の心が働いている証拠かもしれません。現代では「当り前」で片付けている心の動きを観察してみるのも良いかもしれません。
(2)おかげは盥(たらい)の水。良い方を人に差し上げなさい。
天地の道理で、自分が取ろうとすると逃げ、相手に上げようすると自分のところにくるものです。
例えば、「家族、友人と食事をしていて、大皿に美味しそうな一品が切って並べられていたら、真ん中の良さそうなのは人に譲って、自分は端っこか、人が避けそうなのを取ると良い」。
一読して「そんな教えは嫌だ」というような反応がありそうですが、私がお伝えしたいのは、これは意識していないと人間は無意識のうちに良い方を先に取ってしまうところがあり、悪いところを家族・友人の誰かが食べていることです。どうせ口に入れると欲求は消えるのですから、相手に配慮しておく余裕があればしておいて損はないです。「また先に食べられた」と相手が何気に感じることが何回も続くとどうなるでしょう。勿論、教えは自分を束縛するものではないので、食べたい時は良いのを頂いたら良いと思います。
(3)足りないところは足し合って。
職場や家庭生活において、人のできていない箇所には目が行くものです。台所の後片付けを例に挙げると、大量の食器を洗い、テーブルと床を掃除し、残り物は冷蔵庫に入れておくべきところ、うっかり一品だけ冷蔵庫に入れ忘れいるとします。こういう時、忘れていることを口に出して相手に言うと、相手が立ち行かなくなり、相手との関係もおかしくなります。関係が悪化すると、理屈で相手が悪くても、無用のストレスを抱え込んでしまします。そうならないように、「足りないところは足し合って」の精神で、気付いたら自分がさせていただく心が大切ということです。
(4)理屈があっても、みなまで言うな。理屈とくさびは8分(ぶ)止め。
(5)喧嘩(けんか)口論で勝とうとするな。自分が勝ったら、おかげを落としたと思え。
どう考えても相手が悪く、その相手に勝手放題に言われたら、こちらの正しさを主張したくなります。しかし、そこは辛抱して言わないこと。負けた方には、言い負かされたことが残ります。また、時と場所が変わり、その人にお世話になる可能性があるのなら、関係を悪化させるようなことはするな、ということです。
滝に打たれて30分ご祈念するよりも、実生活でこういう教えを実践した方が、神様は働くような気がします。
(6)金の杖をつけば曲がる。竹や木は折れる。神を杖につけば楽じゃ。
嫌がられそうな教えですが、ポイントは人(医者・親友)やモノ(手術・薬)は当てが外れる場合があるので、神を頼れということです。もし、当てが外れて平静でいられるならこの教えは不要。
(7)人、喜べば(人を喜ばせておれば)、神よろこぶ。
生活のあらゆる場面であてはまる、私の好きな教えです。
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念のため、教えは自分自身の指針であって、人に強制するものでもなければ、自分を縛るものでもありません。金光教では、教えをいただこうとする姿勢に神様の働きが現れると考えていますが、宗教の話ではなくても、周囲との調和をはかること、良好な人間関係の構築は、充実した人生には大切だと思います。
