拙紙は、平成22年(2000年)11月に発行したものです。 

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目 次

はじめに               

第1章     日米開戦日誌(昭和16年11月)  

第2章     我が駆逐艦『江風(かわかぜ)()(かわかぜ)』遭難日誌(昭和18年8月)    

第3章     レイテ島沖海戦日誌(昭和19年10月)

第4章     巡洋艦『矢矧(やはぎ)』沖縄戦の記録(昭和20年4月)

第5章     満州からの復員輸送(昭和20年11月)

第6章     日米開戦前の訓練(昭和16年1月)

第7章     会計簿      

解 説  

追補(1) 魚雷の破壊力について 

追補(2) レイテ島の戦い(編集者より)

あとがき                

はじめに

 『ローマ帝国衰亡史』(エドワード・ギボン著)に、今でも印象に残っている記述があります。大意は、戦争を繰り返したローマ帝国。悲惨な戦争のあと、もう二度と戦争はしないと平和体制を築くものの、50年も経つと当時を知らない世代が台頭(たいとう)し、平和体制の崩れる兆しが現れてくる。

 今年は第二次世界大戦が終わって65年になります。これまで、毎年夏になると、戦没者慰霊祭、平和祈念集会、戦没者の遺骨収集、体験談の紹介が行われてきましたが、世代が変わるにつれて次第に風化していく傾向にあります。それゆえ、他の人が実体験されたことを我がこととして追体験することは難しいことですが、二度と悲惨な戦争を繰り返さないためにも、折りに触れ、せめて知ろうとする努力は必要でしょう。

 以前なら知る努力をしなくても、自然と伝わっていたでしょうが、今の私たちは他人への関心が薄れ、前の世代の経験が親子の間でさえ伝わりにくくなってきているのも事実です。

 そこで、前の世代の貴重な体験が次の世代に生かされ、世界人類の助かりとご神願に添えることを願い、金光教 豊中南教会開教百年の記念誌として従軍体験記を発行させていただくことにしました。

 ここに掲載する従軍体験記は、在籍信奉者の大澤榮一氏が昭和16年1月、二十歳の時に海軍に入隊し、開戦当初の様子とインドネシアのケマ港で間一髪魚雷をしたこと(第1章)、南方ソロモン諸島での遭難(第2章)、レイテ島沖海戦(第3章)、沖縄特攻(第4章)と、何度も死に直面し、生死の境を彷徨(さまよ)いながらも生還された体験記です。健康に生まれた青年が、戦地での過酷な軍務によって健康な体は損なわれ、人並みに働くことも出来ぬほど傷められました。そういう身にありながらも、著者は平和を願い、後々の人に読んでもらえるよう、几帳面に丁寧な字で書き残されたのです。

<編集者より>

大澤氏の記録はできるだけ原文のまま記載しました。

原文と違う点は以下の通り:

  • 一部、原文の漢数字は、アラビア数字に直した。
  • < >内は編集者が追加した。
  • (ふね)の名前は、大澤氏の乗艦した(ふね)には『』を、それ以外の艦は「」で区別した。
  • 時間の流れでは、「日米開戦前の訓練」が、第1章「日米開戦日誌」の前に来るが、読みやすさを考慮して第6章にまわした。

第1章   日米開戦日誌(昭和16年11月)

軍艦葛城(かつらぎ)(のり)組中(くみちゅう) 

 日米開戦1ヶ月(ほど)前のことである。昭和16年11月10日、台湾高雄を出港して約1時間、我が航空艦隊の大演習があった。日本海軍の誇りとする水上爆撃機、大空(おおぞら)(せま)しと飛び交っている。勿論(もちろん)、本艦が仮想敵艦になり、目標となっていた。水上爆撃機は我が『葛城(かつらぎ)』目がけて、次々と魚雷を発射してくる。(また)、我々も全力を(あ)げて対空戦闘に応ずる。この日は天気晴朗にして、やや波高く、我々海兵の記念すべき日であった。この演習は実戦さながらで強く印象に残った。

 というのは、我が海軍の雷撃(らいげき)任務である。巨大な魚雷 (重量約2トン)を軽々しく翼下に抱き、遥か彼方(かなた)(実戦の時は約3千(メートル)まで接近する)より水上すれすれに飛来(ひらい)し、発射すれば見事、本艦の下を深く、水泡もものすごく通過する。少しでも深度の調節をあやまれば一大事である。数十機の雷撃機は入れ替わり、立ち替わり攻撃して来る。実戦なら戦果は確実である。約5時間の猛訓練も無事終了した。 

 それから約1ヶ月後、本艦は高雄東港航空隊付きとなって、パラオ島(註)に向け出発したのである。

 (註)パラオは、第一次世界大戦後、統治権がドイツから日本に移り、昭和18年の時点で日本の民間人約2万5千人が居住。

 ここで待機することとなった。その間にも、日米交渉は悪化し、我が海軍艦隊は着々と戦闘準備をつづけていたのである。何年か前から待ちに待ちたる日米開戦は、遂に12月8日午前5時、宣戦布告する事となったのである。事実上、太平洋上で決戦の火蓋(ひぶた)は切られた。

 開戦当時、我々はパラオ島に居た。本艦も南方部隊の最前線に在って東空隊の(オランダ領)(インドシナ)、フィリピン爆撃の準備に手ぬかりはない。多忙多忙の毎日であった。その頃、我が海軍主力艦隊は、米英連合軍の艦船部隊に攻撃を加え、大戦果を治めたとの情報あり。本艦も待ち兼ねていた出動命令が下った。

 12月28日午後2時、堂々パラオ島を出港した。目指すはフィリピン南端ダバオ港である。途中昼夜厳重なる警戒の中に、約2昼夜を(へ)て無事ダバオ港に入港した。時に30日、午後2時であった。

 しかし、我々の入港前、すでに我が航空隊が爆撃し海上部隊も援護射撃で、完全に占領した後であった。艦上から見るダバオ市内は黒煙物凄(ものすご)く、方々に爆撃の跡が残っている。人影も見えない。望遠鏡で見るダバオ市街は実に凄惨(せいさん)そのもの、(しかばね)も山の(ごと)く、家屋(かおく)の散乱した跡は二眼(ふため)と見られない。初めて見る敗戦の跡、この時、特に戦争は敗けてはいけないと強く感じた。そして一層の愛国心を(わ)き立たせたのであった。

 入港後、我々は武装して、市外○○地に上陸した。敵地捜索のためである。でも敵兵の影はない。市民一人すら見当たらない。張りつめていた気も一気に抜けてホッとした。そのかわり土民の家畜である鶏、豚など焼残りが沢山いたので、存分に(い)(ど)りし面白い戦暇の一時(ひととき)であった。

 その日、夕食は早速肉(また)肉の御馳走(ごちそう)である。思えば今頃内地(ないち)に居れば、開戦はしたといえども正月前、楽しい頃である。昭和16年も戦果の中に過ぎ去ろうとしている。明くれば31日、年越(としこ)しである。本艦も目出度(めでた)く、昭和17年の正月を無事迎えんとしている。

 今日<31日>朝から餅つきの準備に忙しかった。午後は みんなで交代・交代で餅つき、真裸(まっぱだか)でふんどし一丁、ねじり鉢巻(はちまき)である。こんな暑い暑い正月は初めてだ。

 サァ………餅もできた。夕方から飲めや(うた)えの大騒動、久し振りの無礼(ぶれい)(こう)であった………。

 いつしか夜も更けて、明日は正月だ。楽しい夢でもみて、次の戦闘に備えるべく静かにゆりかごの人となった。

 明けて正月、全員(じょう)甲板(かんぱん)に整列、東の空を仰ぎ、君が代を歌った。元旦を寿(ことほ)ぎ、雑煮(ぞうに)を喰い、正月の気分にひたった。愉快な正月であった。

 そうしている間にも、どこかで戦闘する兵士もいるのだ。気分も(あら)た。○○作戦の準備は着々進められていた。正月も去り、又つい先日までのきびしい艦隊勤務が始まった。

 1月も(はや)8日、○○艦隊はダバオに集結し、海軍陸戦隊、水上航空隊、落下傘(らっかさん)部隊と役者は全部(そろ)っている。○○作戦の準備は完了。翌9日午後2時、本部隊は堂々ダバオを出港した。

 途中、最前方を駆逐(くちく)(かん)が4隻で警戒、本艦の左右には哨戒(しょうかい)<パトロール>(てい)が4隻、後方5千(メートル)の処に(けい)巡洋艦(じゅんようかん)、駆遂艦、又々(またまた)一等巡洋艦等々の勇姿、実に力強い隊形で行く。約二昼夜の航海が続き、明けて1月11日朝の2時(南方は夜明が早い)目的地たる(オランダ)領セレベス島<現インドネシアのスラウェシ島>の北端、メナド、ケマの2ヶ所に(あかつき)を期し、陸戦隊が敵前上陸するとの事であった。

 この作戦に参加した艦隊は34隻であった。その主力 部隊はメナドに向け攻撃。我が葛城(かつらぎ)を主力とする部隊は 駆遂艦4隻に護衛され、陸戦隊を乗せた「北陸丸」の計6隻で、メナド市の裏側にあるケマ市(小さな町)に向っていた。11日の午後6時頃であった。今日も早い目に夕食をすませ、全員戦闘配置についている。

 折柄(おりから)おこる爆音、我等一斉(いっせい)に上空を(み)た。(まさ)しく敵の中型爆撃機3機がすでに我が上空にあった。見張員の叫びに従い、13センチ機銃が一斉(いっせい)に火を噴いた。他の艦も発砲している。一瞬にして阿修羅(あしゅら)の戦場と化した。敵もさるもの4千(メートル)程に低空し、次々と爆弾投下。でも中々命中しない。本艦もジグザク運動で(たい)をかわし、必死の抵抗である。数分が過ぎた。敵機も遠ざかって行った。右に左に物凄い水柱を残して……。周囲を見たが被害のあった様子もない。全艦無事である。ホッとした。

 太陽も今に西海へ没せんとする黄昏(たそがれ)時であった。みんなで無事を喜び合った。初めてくぐった弾の下であった。まだまだ油断はできない。いつ何時、敵が襲ってくるかもわからない。その夜も厳重な警戒の中に続航する。その夜は変ったこともなく、夜も明けんとする午前2時頃(1月12日)、ケマの港外に到着した。上陸準備も完了している。 

 午前4時頃、我が陸戦隊は上陸を敢行したのである。 敵は知らないのか、(また)最早(もはや)その他に居ないのか、一発の銃声すら聞えない。すでに遁走(とんそう)した後だろうか。とその時、遥か向うの方で火柱が上がったのだ。敵か見方か……油タンクに火をつけたものらしい。未だ銃声は聞こえない。その間に陸戦隊の武器弾薬、糧食等一切(いっさい)陸揚(りくあげ)を終わった。矢張(やは)り敵は居なかった様である。

 夜も明けた。陸上を見ても交戦している様子もない。静かである。完全に占領している様子。朝食をすまし、(ふね)を港外に移動した。と、その時(6時頃)「敵機右20度」と言う見張員の声、総員戦闘配置に着いた。

 早くも敵機は頭上にあった。一斉に機銃が火をはいた。高角砲もうなる。第二回目の対戦だ。敵も3機、急降下で爆弾を投下していく。でも当たらない。しかし、本当に近くで水柱が立つ。何(メートル)の違いである。全艦船、撃って、撃って、撃ちまくる。こちらの銃弾も当たらないのか、敵機は3機とも飛び交っている。本艦も数回水柱で上甲板(じょうかんぱん)はビショヌレだ。我々も頭から水をかむりヌレている。でも、命中弾でないから被害はない。その内に敵の影も見えなくなっていた。ホッとした………。またも無事だった。

 これで数回、生死の境を通り抜けたのだ。これから先、何回あるか分からないのだ。今はもう運を天にまかして、(ただ)生命ある限り戦うのみである。その日から連続3日間、  毎日毎日敵襲に遭ったが別に被害は無かった。

 3日目の事だ。午後2時頃、(また)も飛来した中型機3機、本艦上空より爆弾投下してきた。勿論、対空砲火も物凄く応戦した。(おり)(おり)、どこからともなく味方戦闘機2機が襲いかかったのだ。これを知った敵機、雲間(くもま)を利して去らんとするを、後ろから追射ち、空中戦を展開した。艦船からの対空砲火はピタリと止まった。この時の味方の戦闘機は我が海軍が誇りとする零戦、つまり紀元二千六百年を記念しできた(ぜろ)式戦闘機である。

 我が戦闘機は上になり下になり、数分、ザッと1万(メートル)もあろうか、その上空での空中戦である。すると敵1機が黒煙ものすごく落ちて行った。と(また)1機パッと黒煙に包まれた。でも水平飛行している。尚も追いかけて行く2機の姿が雲の中にかくれてしまったのだ。その後、また1機、空中分解して海面に消えるのがかすかに見えた。残る1機は頓走(とんそう)したのか墜落したのか分からなかった。が、2機は完全に海の藻くずと消えたのだった。私は思わず万歳を叫んだ。それからは敵も来なかった。

 本艦も今無事、任務を果たし、14日午前11時ケマを出港、途中も無事16日午後1時頃ダバオに入港した。

 その後4日間の碇泊、20日、又も東空部隊を乗せ、午前0時ダバオ出港、約1昼夜航海し、セレベス島の北端、バンカに寄港した。少々荷物を陸揚(りくあげ)後、(ただち)に出港する。またもメナドに向うとのことだ。

 その日遅く、メナドに入港した。約3日の碇泊という。その間、乗務員は交代で上陸許可。市内の情況を見て廻ったのだ。ここは、我が海軍航空部隊が落下傘で奇襲、実弾なしで占領したとのことだった。しかし、後で(こめ)の倉庫、ガソリンタンク等に火をつけ焼き払ったとかで黒煙立ち(のぼ)り、悪臭ただよい、無気味であった。でも市街はそのまま焼けてなく、街並はきれいであった。住民も1人として影無く物静かだ。でも店内は大分荒らされていた。 

時計店、文具店、食料品店、衣料店等沢山あったが、どの店もめちゃめちゃである。落下傘部隊が荒し廻ったとのことであった。我々が上陸した時は、目ぼしいものは何ひとつない。でも一軒の文具店で金ペンを見付け持ち帰った。長い間使用したが、これも後の戦闘で太平洋の()くずとなった。余談である………。

 こうして我が皇軍の電撃作戦は着々と戦果を収めていったのである。在泊中の任務も終わり、23日無事出港。 

 その後、約2昼夜の航海も変った事なく、25日又々ケマに入港した。直ぐに航空部隊の物件の揚陸作業にかかり忙しかった。この時は本艦だけの単独行動であった。その日、丁度午後2時頃である。突然大爆音がした。我々は、又々敵機だと思った。我先にと戦闘配置についた。上空を見上げたが敵機も見えない。さっきの音響と共に、本艦の500(メートル)(ほど)先方に碇泊していた金山丸が前方半分海中に沈んでいる。乗務員の影が二、三動いて見えた。それより敵はいづこと探したが何も見当たらない。

 10分(ほど)が過ぎた、と思ったときだ。見張員が「右20度、魚雷………」と叫んだ。その方向を見ると、ハッキリ本艦目指して魚雷が走ってくる。それはそれは真白い尾を引いて、スワ………一大事。本艦は(いかり)を入れたまま、艦橋(かんきょう)の見張員のひとりが、とっさに面舵(おもかじ)一杯に操舵(そうだ)したという(後で知った)。

 まさしく敵潜水艦の雷撃である。グングン魚雷は近づいてくる。私は最後部15センチ砲の二番砲手。艦が面舵をとったので、魚雷は自分たちの方に真一文字だ。最早(もはや) 数10メートルの距離だ!私は思わずアッ………と叫ぶところだった。というのは、艦がぐーっと左に動くのを察知した。魚雷は目の前だ。10メートルと離れていなかったと思う。本艦の遥か後方に流れて行くのをハッキリと見たのだ。そして2千メートル後方の砂浜に飛び上がっているのを見た。

 ホントウに一瞬の出来事だった。ア……と、みながため息をもらしたものだった。「よかった、よかった」という砲術長の言葉が未だウツロに聞こえる……。本当に天運であると思った。本艦命中をまぬがれた一瞬だった。

 後でボートを降し、その魚雷を見に行った。実に大きなものであった。直径90センチと言う。日本にはその頃そんな大きな魚雷はなかった。日本のは一等潜水艦が持つのが75センチである。雷撃機用が45~50センチである。あんな大きなのが一発命中すれば本艦とて轟沈(ごうちん)するところであった。この時の潜水艦はその後不明。撃沈することが出来なかった。残念至極である。 

 その後、金山丸は沈没。船長は制止する部下を避難させ、自分は正装(せいそう)割腹(かっぷく)自殺していたとか、後日の話であった。

 その後も数回、敵機の来襲があったが、本艦も一寸(ちょっと)した至近弾(しきんだん)の被害だけで済み、応急処置で任務遂行。志気旺盛、無事内地帰還の途についた。以下略す。

『葛城』退艦後の記録である

 私は、昭和17年7月12日、横須賀海軍砲術学校に入学する事になった。本艦はシンガポールに碇泊中。

 7月12日、朝食をすまし『葛城』を退艦した。と同時に、シンガポール、ジョホール <シンガポールとは海峡を(はさ)んで対岸> に停泊中の「香椎(かしい)」に便乗する。同14日午前中に出港、シンガポール(当時、昭南島といっていた)東側にある昭南港に入港、即時「香椎」を降り、基地隊に仮入隊となる。約20日間の在隊。その(かん)、南方特有の高熱病デング熱にかかり、10日程病院に入る。

 そして、8月5日、同隊を出て即日「北安丸」に便乗した。翌日の6日午前11時、昭南港を出、約2昼夜の航海を経て、8日午後3時、南洋(フランス)印度支那(インドシナ)(今のベトナム)、サイゴン<現ホーチミン>に入港した。同日、夕食後 「北安丸」を降り、陸上警備隊へ仮入隊となる。

 4日間の在隊、同13日の夕食後、「北安丸」に再便乗となる。(あくる)14日午後8時、西貢(サイゴン)<サイゴン>を出港、河口(かこう)に3日間碇泊した。同17日早朝出港、約6昼夜の航海を()て、22日午後4時、台湾の高雄に入港す。2日在泊、24日正午、同港を出、約6昼夜の遠航を続け、30日 午後2時、無事、佐世保に入港した。

 しかし、当日は港内に碇泊、上陸できない。便乗者の検便等あり終わったのが6時半頃。その後、丸1日の仮泊、明けて9月1日正午、錨地(びょうち)に向い、直ちに退船、上陸した。  

 でもこれから税関の点検があるとのこと。4時頃終わった。私の横須賀砲術学校入学は9月1日である。(いま)だ  佐世保で、まごまごしているのだ。しかし、如何(いかん)ともしがたく、4時半はじめて外出を許された。私は早速、佐世保駅へと急行したが、その頃には丁度東京行の汽車がない。夜中の1時発、門司(もじ)行に乗ることにした。翌9月2日、朝7時50分門司着、9時20分発の山陰線廻りで、(と)(かく) 3日昼頃、無事横須賀(よこすか)に到着した。3日の遅れ入学となった。

 きびしい学校教練が始まった。長い、長い4ヶ月間であった。その4ヶ月の学校教育を終え、佐世保に帰る。佐世保での在団4ヶ月後、<昭和18年>5月15日、駆遂艦『江風(かわかぜ)』の乗組(のりくみ)となる。

 <大澤氏の欄外の記録>

 私が昭和17年7月12日、<横須賀砲術学校に入学するために>シンガポールで『葛城』を退艦した後、同艦はシンガポールを出港し、スマトラ島に向う途中、敵潜水艦の魚雷で沈没したとの噂をきいた。乗務員も過半数が戦死したとのことであった。私は奇しくも一命をとりとめたのである。

第2章  我が駆逐艦『江風(かわかぜ)』遭難日誌(昭和18年8月)

 昭和十八年八月六日(永久保存)

 第二十四駆逐隊

 昭和18年5月15日、私は佐世保第一海兵団より転勤を命ぜられ、駆遂艦『江風(かわかぜ)』の乗務員となる。約10日間の佐世保在泊を経て、5月27日丁度(ちょうど)海軍記念日の当日、なつかしの母港を後に○○前線へと出港したのである。

 途中、「愛国丸」「伊良湖」等を護衛し、約6昼夜の遠航も無事トラック島に入港した。

 その後、南方各方面の前線基地へ輸送作戦に従事、その間、南方各方面では敵の反撃も活発となり、特にコロンバンガラ島では敵の大部隊が上陸したとの情報が入り、我が陸海軍の苦戦が続いているとの事であった。我が駆遂隊もこの方面への戦力増強のため陸軍及び武器弾薬等の輸送に参加することとなったのである。

 丁度8月5日、その命令が下った我が『江風(かわかぜ)』は、「萩風(はぎかぜ)」・「(あらし)」・「時雨(しぐれ)」の4隻で、在営ラバウル陸軍部隊を乗せる準備にかかった。陸軍は約千人程である。その日のうちに糧食、武器等を積込み、夜半(11時頃) ラバウルを出港した。目的地は今、戦雲急を告げるコロンバンガラ島及びベララベラ島である。でもこの方面には多くの輸送船が参加していたのであったが、途中敵の攻撃にあい、目的を達していないとのこと。止むなく我等(われら)駆遂艦を使ったとのことである。この作戦に参加できた我等駆逐隊は何と光栄であると喜び勇んだものである。

 しかし、この方面の海域は、敵も多数の艦船部隊を送り込み、昼夜の別なく我に反攻の度を増し、上空を飛来(ひらい)する航空機はほとんど敵機ばかりである。寸時のゆだんも許されない一大決戦場である。

 明くれば昭和18年8月6日、この日は朝から小雨の降って見張(みはり)のきかぬ、気持の悪い日であった。昼間はなんとか無事航行することができた。まだまだ目的地までは大分(だいぶ)遠い様である。いつしか日も沈み夕食も過ぎた。

 その頃、我が部隊は丁度(ちょうど)コロンバンガラ島の近くベララベラ島の海峡を通過中との事。(あと)数時間で目的地へ到着とのことであった。あいかわらず小雨模様で視界 悪く見張(みは)りがきかない。

 4隻の(ふね)は「萩風(はぎかぜ)」を先頭に「(あらし)」・『江風(かわかぜ)』・「時雨(しぐれ)」と単縦陣にて全速力、敵前を爆進していたのである。時に<午後>9時、突如1、2番艦の「萩風」「嵐」が一大轟音(ごうおん)と共に物凄い火煙に包まれ、艦影すら見えなくなった。飛行機の音も別に聞こえていない。遂に来るべき時がきたのである。(まさ)に覚悟はできている。しかし突然の出来事である。見る見る(うち)に付近一帯が火の海と化した。初めて見る火の海。

 この時、見張員の1人が(自分も思わず叫んだ)「1、2番(かん)がやられた」と頓狂(とんきょう)な声で叫んだのである。同時に皆の眼がその方に向いた。その時は最早(もはや)2隻の影はなかった。(まさ)しく轟沈(ごうちん)である。我が前方を行く2艦は今、早くも敵に沈められたのである。誠に寸時の出来事であった。我々は敵襲だという声に身も振い立ち、全身の血が逆流した思いであった。でも我々の戦闘準備は完璧である。

 数分が過ぎた。とその時、艦橋(かんきょう)の見張員から「敵魚雷艇、右15度」と叫ぶ声が周囲の静けさを破り、ひびき渡った。と同時に我が足元で大爆発が起った。

 アッ………と思ったと同時に火の玉のような物が頭上より降ってきた。アッ………イタイッ………と思わず叫んだ。と同時に機銃台の横に伏したのである。

 敵魚雷艇より発射された魚雷が艦橋の下付近に命中したのである。この時初めて自分は火傷(やけど)をしていることに 気付いた。両手、頭、顔、背中等、数ヶ所痛みを感じた。気を取りもどし附近を見れば、そこら一帯何かの崩れ落ちた残ガイが散っている。実に物凄い光景である。艦は前部の方は何にも見えない。辺りは真暗(まっくら)である。(そば)に居た機銃員の姿すら見えない。

 すると、すぐうしろの方で誰かが「ヤラレタッ………」という声がした。田畑班長である。(また)近くでも「痛いー」という二、三の声がした。機銃員である。この時、田畑班長が「(みな)こちらへ来い!」と叫んだ。自分も火傷(やけど)の痛さをこらえて、班長の(そば)へ行った。班長は、みんな怪我(けが)はなかったかと聞いた。自分も重傷という程でもなかったが、(と)(かく) 負傷していることを告げた。側で二、三人の者も痛い痛いと言っている。班長も顔に二ヶ所、破片を受け顔一面、夜目にもそれとわかる程、黒いものが流れていた。物凄い血である。私はフト応急箱に包帯のあることに気付き、 その置場に行ったが見当らない。物凄い残ガイばかりである。ようやく探し当てみんなに配ってやろうとしたが手がきかない。でも、やっとのことで取り出し、班長はじめみんなに配ってやった。

 しかし、その間にも艦体は除々に沈んでいたのであった。早くしないと(ふね)と共に沈んでしまう。(まさ)に死の寸前である。この時、班長が逸早(いちはや)くことの重大さを察してか、みんなに「オーイ、みんな右舷(うげん)に廻れ」と言った。そこへ行ってみると、そこは何にも落ちてなかった。みんな集まった。

 その時、後部甲板でドブン、ドブンと人の飛び込む様な音がした。と同時に誰かが、艦が沈むぞと叫んだ。その時、班長が機銃台の下に積んでいた円材に気付いたのか「オーイみんな、この円材を海に投げ込め」と言った。でもみんな多少なりと怪我(けが)をしている者ばかりである。思うように体がきかない。でも今は、生命の危ない時である。苦痛をこらえみんなが円材を投げ込んだ。ほとんど投げ込んでしまった。その頃には、もう海水は上甲板まできていた。

 この時、班長が大声でどなった。

 「みんな早く飛び込め。……(ふね)が沈没してしまうぞ」と………。

 みなは一斉(いっせい)に海中に飛び込んだ。そして円材につかまった。みんなは一生懸命泳いだ。と言うのは、艦が沈む時は巻込まれるからである。自分もそのことは平素より聞いていたので反対方向へ<艦から離れるように>夢中で泳いだ。

 ものの2、300メートルも泳いだと思う頃である。艦尾の方が真黒い、まるで怪物の如く、我が頭上に見えてきた。 (ふね)が今にも海中に沈せんとする(だん)末間(まつま)物凄(ものすご)い光景である。(ま)もなく異様なる音と共に艦体は見えなくなってしまった。この時………我が身は海中に引き込まれていくのに気付いた。アッ………うずに巻込まれたのである。夢中で(ちから)いっぱい泳いだ。海中でもがいている身、息が苦しくなってきた。アッ………最早(もはや)、これまでかと、とっさに思った。その時、急に目の前が明るくなった。息ができた。アッ………助かったのだ………と思った。

 附近は重油で海面いっぱい真黒だ。(はる)か向うの方は一面の火の海。海面の重油に火がついて燃えているのだ。丁度(ちょうど)(そば)に板が浮いている。とっさにすがりついた。先程(さきほど)の物音は我が駆逐艦『江風』の最後の名残りを惜しむ、いともあわれなる沈没の叫びであったのだ。そして艦の沈む時、発する渦の中にいたことに気付いた自分は一生懸命もがいたのにもかかわらず、数分間を海中深く引き込まれたのである。まさに天運というか神助けというか奇蹟的に助かったのである。

 近くでは遭難者が海面一杯に、黒いかたまりとなって三々五々、夜目にもはっきりと悲壮な面持ちで浮かんでいた。自分も先程まで生死の境をさまよった余りにも変わりし其の面影であったに違いないと思った。

 その間にも遥か向うの方では、砲声が聞える。機銃弾が頭上を飛び交っている。艦影も見える。敵艦か味方の艦かわからない。友軍の「時雨(しぐれ)」か………はた(また)、敵艦か……。恐らく友軍が健在で、敵艦と撃ち合っているのであろう。また、その向うでは、物凄い火達磨(ひだるま)となった艦が見える。でもまだ動いている。その上を弾丸が尾を引いて飛び交っていた。矢張(やは)り友軍の1隻であった。敵はその火の玉を目標に空中から、また水上艦艇から撃ち出す弾はものすごく、またきれいでもあった。数分が過ぎた、と急に辺りが暗くなった。先程(さきほど)の火達磨となっていた艦が海中に沈んだのである。砲声も消えた。でもまだ重油は燃えている。

 すると、近くに艦の影が見えてきた。敵艦か、また味方か?………人声も聞えて来た。よーく見れば敵の駆逐艦である。私はとっさに、その反対方向へ一生懸命に泳いだ。海面一杯に泳いでいる陸海軍の兵隊を引き揚げているのが見えた。私はつかまったら最後だと思ったのである。でも助けてくれ一一と叫んでいる者もいた。陸軍の兵士達は艦の型がわからない。友軍が助けに来て(く)れたと思っているのであろう………。大分(だいぶ)ひろい上げられたのが見えた。それも長い間ではなかった。(しば)らくして、その艦はいづこともなく暗の中へ消えて行った。

 私はホッとした。

 アーまた助かったと思った。

 でも、其の後、助け舟も見えない。情けない様にも思えた。しかし、我々がこうして泳いでいるのが敵に見つかったら、いつ何時、機銃掃射されるかわからない。

 死はもとより覚悟はしていても、今ここで死んでは不甲斐(ふがい)ない。何とか助かる方法はないかと考えてみても、身は海の中、それに手の火傷が痛むのも覚えてきた。それまでは周囲の、つまり眼前の敵を気にする余り、気付かなかったのである。

 早く向うの火が消えてくれることを祈った。

 すると、其の時、猛烈なるスコールが降ってきた。そのために、火の海もどうやら消えたようである。辺りは真の暗闇、ただ頭上の星明りだけである。南洋の海とはいえ、我が身体(からだ)は数時間も海の中である。その上に強烈なスコールが頭上から追い討ちである。急に寒さを感じてきた。私は手足を動かす事に一生懸命である。

 ア………、このまま死んでいくのでは……と思ったりした。もう何時頃か………それも分からない。もうこうなっては、生命ある限り、時を待つより仕方がない。また何時間かが過ぎた。まだまだ気は確かである。ようし、死んでたまるか。俺は死なんぞと我を(はげ)ました。

 ふと気がつくと、(はる)か向うの方が明るくなってきている。ア………夜が明けたのだと思った。

 私は一瞬神に祈った。長い、長い一夜であった。

 明るくなった。でも、四方島影(しまかげ)すら見えない。空腹を感じてきた。しかし、どうすることもできない。(ただ)、今は運を天にまかしているだけである。

 太陽も昇ってきた。辺りに人影もない。(ただ)自分一人で ある。この広い海原に(ただ)自分ひとり、何と心細いことか。全く生きた人形である。日も頭上へ昇ってきている。頼りになるものは、小さな板切れ、ただ一枚、これが命の綱………いや命の板だ。

 どの方向へ泳いでよいのかも分らない。

 只々波の()()に身をまかすより仕方がない。

 この時(また)も非常なる恐怖におそわれた。でもどうするすべもない。ただ運あるのみだ。つかまっている板を頼りに身をまかせるしかない。

 その時、敵の偵察機らしき一機が飛んできた。私は思わず板切れの下にもぐった。しかし、身のかくれようはずがない。でもわらをもつかむ思いである。でも無事去って行った。

 ふと見ると遥か水平線に小さな島影が見える。ア………島だ。濃霧にさえぎられ、はるか彼方(かなた)にほんやり浮ぶ島影、またその反対側にも島が見える。後でわかったことであるが、この島がコロンバンガラ島(およ)びベララベラ島であった。

 私は島に向って、力の限り泳ぎにかかった。丁度、この日は天気晴朗なれども波高く、南洋の海にもこの様な 大波の日があるのかと思われる程の波である。風も大分(だいぶ)強く吹いていた。私は手の火傷(やけど)の痛さも忘れ懸命に泳いだ。しかし、中々近づかない。日は早くも西海に没しようとしている。又々(またまた)夜を迎えねばならないと思った。ここは海峡で潮流が強い。また風波も反対側からである。心ばかりは、はやれども中々(なかなか)島に近づかない。

 いつしか日も没し、またまた夜がきた。

 無気味な敵地の海原である。

 この頃ともなれば、身体は最早(もはや)、綿のように疲れ果て、自由がきかなくなっていた。ただ気力のみである。夜は何となく無気味であった。でもどうするすべもない。時は容赦(ようしゃ)なく過ぎて行く。もう何時頃か自分の感じでは(午後)10時頃かと思った。幾度か意識もうろうとなり、時折、故郷の事が、おふくろの面影(おもかげ)が瞳に浮ぶ。過ぎし日の色々な事が脳裡(のうり)をかすめる。その時、はっきりと母親の笑顔が目の前に見えた。アッ………と思わず我にかえった。全く体に力がない。目の前がぼうーとしてくる。でも死ぬる気はしなかった。気を取り戻し、ふと見ると目の前に椰子(やし)の木がかすかに見える。島だっ………勇気百倍、しかし気のみ、身体は綿のように疲れ果て、思うように動かない。丸一昼夜、食物一つ無く、海中をさまよったのだ。力のあろうはずがない。何とか何とかと思うばかり。

 すると、ふと足に何かがさわったのを感じた。でも、それが何であったか、その時はわからなかった。それから数分、こんどは、ハッキリと足にさわった。特殊な感じ?アッ………島だ………島に泳ぎ着いたのだ。いやいや流れ着いたのだと思った。でも自分は懸命に海岸に向って泳ぎつこうとしている気なのに、中々近づかない。身体が思うようにならないのだ。その時また、足に何かがさわった。今度こそと思ったが、矢張(やは)りつかまえる事ができなかった。その時、今度は手にふれるものがあった。岩だ・・・でも、また流された。残念。今度こそ、と全身の力を手先に集中した。しかし、今度は中々近づかない。

 また数分間が過ぎた気がした。

 この時、ふと足元にまた何かがさわった。でもつかまらない。磯波に押戻されて行くのだ。今度こそ、と思い全身に力を入れて待った。(また)手にさわった。岩だ。今度は、必死の力で、ようやく岩にすがりついた。思わず助かった………と思った。でも、磯波は次々と打寄せては返す。必死の抵抗だ。ようやく島に足を踏みつけ立とうとしたが、皆目(かいもく)足に力がない。腰が砕けて立つことが出来ない。もう一度、必死で立ち上がろうとしたが、打寄せる波に足をさらわれ、バッタリ水中に倒れた。幾度も繰り返し、繰り返し、ようやくにして立ち上がった。いやいや、はい上がったのだ。波打際(なみうちぎわ)で、またバッタリ倒れた。それから意識を失ってしまった。何分間か……いや何時間か……私は、渚で意識不明だったのだ。

 ふと気がついた時、誰かが自分をゆすっているのに気づいた。アッ?………意外?………土人であった。何やら言っている。勿論、言葉はわからない。ふと我にかえり見れば手に椰子(やし)の実を下げている。思わず、それに手をふれようとした。無意識のことである。でも土人は、案外やさしく、その椰子(やし)の実を素早く割って、私にくれて、何やら手で指示している様子。私は夢中で、その椰子に吸いついた。この時の味は、今も忘れられない。実に美味かった。私は両手を合わして、その土人を神の如く拝んだものだ。それから何となく、元気回復、数回にわたり、土人に頼んで椰子(やし)の実をとって(もら)い、4ツ(ほど)喰ったのを覚えている。(まさ)に地獄で仏に会った気持ちがしたとはこんな時の事を言うのかと思った。

 それから元気が出て(なぎさ)を歩き、土人と椰子の実を取っていると、向うの方に人声がする。見れば、10人ばかり生き残った駆逐艦の兵隊達である。会って生存を喜び合ったものだ。その後、互いに励まし合って、今は食糧の事ばかり気になって探し歩いた。その頃、本当に助かったのだと実感した。

 でも、手の火傷(やけど)化膿(かのう)してみる影もない。これが自分の手かと疑う(ほど)、変りはてている。ほとんど自由がきかない。でも先程の椰子(やし)の実で、空腹は満たされた。でも体は綿の (ごと)く疲れている。急に眠気(ねむけ)がしてきた。その場に釘付けされたような気持で腰を降ろすと、いつしか寝入った。

 そして、思いがけぬ悪夢に(さら)されていた。

 何かしら意識し難い夢、それは、数時間前まで意気旺盛、敵地攻略に白浪をけって突進する帝国海軍、駆逐艦『江風(かわかぜ)』の勇姿であった。今も尚、堂々と浮んでいるその姿、何と頼もしきかな。でも、長くは続かなかった。

 戦友達が大勢、自分をゆり起こしていた。

 誰かが言った。「此処(ここ)に居ては、食うものがない。今から食う物を探しに行く。早くしないとお前一人、残されてしまうぞ」と……。自分も立ち上がり、皆と行動した。

 やがて(また)、南方の夜がやってくる。

 「おいみんな、今夜は此処(ここ)で野宿しよう」と誰かが言った。その時集まっていた兵は、陸軍兵、海軍共で200人程であった。その夜は、思い思いに椰子の木の下で野宿だ。これが敵陣でなかったら、気楽なのに、と思った……。忘れるな、此所(ここ)は最前線の敵の島である。いつ敵の襲撃を受けるか分からない。今は只、その時その瞬時を生き長らえることのできるよう計らうだけである。こんな無人島で、到底(とうてい)助かる見通しはない。幾日、生きることができるかだけである。今日も椰子の実を探してさまよい歩く。誠にあわれな日本帝国軍人達だ。つくづく、そう思った。今日は草枕で、明日はいづこか、ジャングルの中か。ただ、来る日も来る日も食を求めて危険を犯し、さまよい歩く毎日毎日………。

 いつしか、「1ヶ月の日が過ぎたぞ」と誰かがささやいた。実に、長い長い1ヶ月であった。その間、食を求めて、(あ)る時は土人の住み家で、或る時は深い深いジャングルの木の枝の上で、また或る時は腰まで入いるぬかるみの中に迷い込み、西も東も分からなくなって一夜を過したり、およそ人間として想像もつかないような1ヶ月であった。でも、これから先、いつまで、この様なことが続くか分からない。

 或る日の事である。陸軍の兵士達が、林の中で被服を(ほ)していたのを敵機に見つかり、物凄い爆弾の雨を受け、5人が死んだ。目の前で息を引き取っていった。

 また、或る時は、海岸の河口を泳いで渡っている最中、敵機に発見され、またも集中攻撃。川の中で十数人が死んでいった。その時の光景は一生忘れられないだろう。

 こうして、また10日(ほど)が過ぎてしまった。

 ()る日の事である。海岸に集まり、朝の食事時、土人の常食としているパパイヤを盗み取り、食っていた。その時、敵の魚雷艇が2隻、海岸近くを通過するのを見た。一同、スワッ………敵襲来と逸早く、ジャングルの中にかけ込んだ。みんな、あわてて食糧なんぞのさわぎではない。一目散(いちもくさん)に走り合い、ジャングルへ。その後、ジャングルの中でみんなとはぐれ、行方不明となって、不帰の人となった者も沢山いたとの事であった。

 来る日、来る日が不安の連続である。いつの日、人心に帰れるのか。ハタ(また)、このまま、この島で白骨となるか。一寸先の事を誰知るや………。

 また一夜が明けた。その日も南洋の太陽はようしゃなく照り付けていた。我々は小高い丘の上で一夜を明かし、椰子の実にありついていた。

 とその時である。遥か前方の海岸に20人ばかりの兵隊が歩いている。未だ敵か見分けもつかない。我々は身をかくし、じっと近づくのを見ていた。どうやら敵兵でない様だ。我々からはぐれた連中か?いや違う。銃を持っている。「アッ………日本兵だ」ひとりが叫んだ。そして10人ばかりが飛び出して行った。この様子を前方でも見たのであろう。素早く銃を構えた。でも、言葉が届く位置まで来ていたのだ。味方だ。日本海軍の陸戦隊の一小隊である。みんな、我を忘れて飛び上った。この時の喜び様は言葉に尽きない思い。早速、両者、手を握った。又々(またまた)この時も助かったという気がした。でもまだ早い。

 その後、話を聞いた処では、ラバウル部隊からこの島に 敵情視察のため派遣されていた横須賀の兵隊であった。実は1ヶ月の予定でこの島に派遣されたとの事。早速こちらの実情を報告し、ラバウル部隊に無電してもらう事となった。

 (まさ)に、天の助けである。我々一行は、その陸戦隊の基地、つまり(ジャングルの中の野営である)そこへ集結した。総勢200人足らず、早速(さっそく)にぎりめしを1ヶずつ配給して(もら)った。この時の味は忘れられない。その(はず)だ。40日(ほど)、米粒1ツ喰っていないのだ。毎日毎日椰子(やし)の実ばかりで、口の周囲は油で焼け、出来物が出て、顔色も満足な色をした者がひとりも居ない。椰子の実では腹一杯喰えない。他に食糧になる様な物がない。満腹するはずがないのだ。このにぎり1ツが、正に千金の価がする感じであった。でも、(ただ)の1ケのにぎりで満腹するはずもない。もっと欲しいと思っても仕方がない。命だけは、当分つなぐことができた。

 早速、ラバウルの本隊へ打電してもらった。でも、大型船では航行できないとのこと。上陸用ダイハツが4隻、出発するとの返電があったとのことである。一行は喜びに沸いた。でも、片道10時間余りもかかるとのことである。

 その日は、陸戦隊と別れて、野宿することとなった。

 時々、敵機が飛来するも、我々の居ることを知らないのか去って行く。日もとっくに暮れた。いつしか、夢ウツツ。疲れ果てた体を休めた。ア………今日も無事だったと一人、口の中でつぶやいた。その内に我を忘れ寝入ってしまった。

 夜が明けた。暗いうちに用意したのか、我々の知らぬ間に、又にぎりめしができていた。早速、配ってもらった。今日も1日、このにぎりで命をつなぐのだと思うと何だか心細い気がした。でも仕方がない。まだ助け舟は来ない。待つ身のつらさ。時はいたずらに過ぎていく。(また)椰子の実をとりに歩き廻った。助けの舟はまだ来ない。そのうちに陽は西に没しようとしている。やがて夕暗がせまって来る。今日も帰れない。そうした日が次々と過ぎた。

 迎えの船を出しているとの返電はあるのだが、中々来ない。問い返したら、途中で敵に見つかりやられていた事がわかった。第二の助け舟を出しているとの事。でもそれは早くても明日になるとか、誠に情けない返事である。人の気も知らないでと思わず愚痴(ぐち)をこぼした。でも助け船も命がけである。すでに何人かの生命が失われている。申し訳ないことだ。またまた今日も過ぎた。派遣隊の食糧も無くなって来たと言う。もう、にぎりめしも(もら)えなくなった。

 そうこうするうちに、5日間が過ぎ去った。と、その日の夕方である。助け船が来たという知らせだ。やっとの事でたどり着いたという。一行は乗船の準備をした。でも、夜でないと乗船できないとのこと。敵に発見されたら全員 最後である。夜半を待ってみなが海岸に出た。でも、船が見えない。そのはず、船は遥か向うの方にある。海が遠浅で近づけない様だ。船まで100(メートル)以上もあった。泳いで行かねばいけない。「みんなそのまま泳いで行け」と誰かが言った。自分は泳ぐことは大丈夫だが、手が火傷(やけど)のため、思うように動かない。でも泳がぬわけにもいかぬ。手の痛さをこらえ海へ入って行った。元気なやつは(はや)乗り込んでいる。助け船は2隻である。それぞれ分乗する。自分も途中、何回か沈みかけ、沈みかけ、ようやく泳ぎついた。最後の方であった。

 全員、乗り込んだ。艇長が言った。途中は敵が一杯。見つかったら最後である。覚悟して欲しいと……。一難去って、また一難だ! 行ける所まで行くより仕方がない。船は軽いエンジンの音を立て動き出した。この時、海軍の乾パンが3枚ずつ配られた。この乾パンのおいしい事。そして、何十日振りかでタバコも配給された。実に、おいしかった。そうして敵の目をかすめ、無事ラバウルへ到着することができた。(や)(はり)、敵地途中は生きた心地もしなかったが、どうやら無事助かった様だ。全員、喜んだものだった。

 私はすぐに病院へ行った。そして応急処置をしてもらい、その後もすぐ駆逐艦に乗込んだ。この艦はトラック島へ帰るとの事。もう此処(ラバウル)まで帰って来たら内地に帰った様な気がした。艦はその夜ラバウル港を後にした。翌日夕方、トラック島へ入港した。そこで退艦し、今度は輸送船「東京丸」に便乗し、即日同港出港、約4日間航海、懐かしい内地、千葉の館山港へ無事入港した。

 何ヶ月目か、内地を見るのは・・・。 

 その後、横須賀海兵団へ送られ、衣服・靴等をもらい、早速、佐世保の兵隊は汽車に乗って佐世保へと向かう。この車中で初めて気がついたのは、誰の顔を見ても、黒く皮がむけて丸で土人のようだった。でもみんな元気。初めて笑い声が聞こえてきた。何十日かの生死を共に生き抜いてきた敗残兵のせつない笑顔であった。あの戦友は、あの時死んだのだと………思えば一瞬笑顔も消えて、過ぎし あの時、あの頃を思い浮かべて、一人車窓から映り変る外の景色にボンヤリ見とれていた。いつどこで死んだのか。田畑班長の姿は、とうとう見えなかった。多くの戦友よ、安らかに、と祈らずにはいられない。ア………戦友よ、『江風(かわかぜ)』よ。今も南方では多くの戦友達が戦っているのだ。只、武運(ぶうん)長久(ちょうきゅう)を祈りつつ、いつしか佐世保へ戻っていた。時に、昭和18年10月中頃だったと思う。終

第3章  レイテ島沖海戦日誌(昭和19年10月)

巡洋艦『矢矧(やはぎ)』戦果の記録 

 昭和18年駆逐艦で遭難後、10月中、佐世保に帰り、約7ヶ月、海兵団勤務。19年5月10日、巡洋艦『矢矧』乗組となる。その後、台湾沖海戦、レイテ作戦等に参加、数々の戦果をあげた。当時の記憶をたどり記したのが、この記録である。年月も経て古い記憶故、月日等は略す。

 私は昭和19年5月10日『矢矧(やはぎ)』の乗組員となる。

 当時、本艦がまだ佐世保・第二ドックで新造され、艤装(ぎそう)中であった。その後、約3ヶ月の艤装工事も終わり、いよいよ試運転。海軍側と工廠(こうしょう)側立会いで佐世保港を出、玄海灘(げんかいなだ)で全速運転。

 その当時、日本海軍の一番早い速力は駆逐艦で、中でも最新型のA級月型である。時速38(ノット)<時速70km>であった。『矢矧』の試運転全速力が45(ノット)<時速83km>であった。乗組員一同、工廠(こうしょう)側もビックリした。エピソードの持主が、我が巡洋艦『矢矧(やはぎ)』である。やがて、海軍側に引渡された。我々は毎日毎日新兵器搭載のこの艦で猛練習が始まった。

 そして、或る日、○○前線に出動したのである。 

 その後、南方○○基地で訓練また訓練。そして、我が南方(なんぽう)方面(ほうめん)主力艦隊はシンガポール沖に集結していた。戦艦「大和」「武蔵(むさし)」をはじめ、あらゆる艦種、総勢130隻との話であった(後日知る)。

 ()(かく)、大艦隊の集結だ。当時、内地では戦雲急を告げ、東京が空襲されたとのデマまで飛ぶ有様。日本艦隊は何をしているのかと、国民が不安がったとか。最早(もはや)このうわさを聞き流してはいられない。

 我が艦隊は堂々、台湾沖へと出動する。

 当時、敵の艦船部隊も太平洋上に出撃しており、点在する南洋の各島々に上陸(また)は攻撃を加え、本土爆撃をねらっていたと言う。我が艦隊もこれを迎え撃つ()く出動したのだ。

 或る日、我が艦隊は、ボルネオ島北方を航行中である。南方の夜も明けて朝食前であった。『矢矧(やはぎ)』の前方二千メートルを前進する一等巡洋艦「摩耶」「鳥海」の2隻が、突然、魚雷命中、大爆音が起った。黒煙物凄く炎上している。(ただ)ちに全員戦闘配置についた。全く油断していたのだ。近くを護衛していた駆逐艦が早くも全速で敵潜水艦を探策、爆雷(ばくらい)攻撃<魚雷攻撃>したが戦果不明。2隻の巡洋艦が共に海の藻くずと消えて行った。多くの精鋭兵と共に誠に残念至極だ。我が方の被害甚大(じんだい)である。

 その後、我が艦隊は、フィリピン、マニラ港で燃料を補給後、レイテ湾攻撃部隊と台湾沖出撃部隊<註>の2つに別れ、我々は太平洋海域に向った。

 <註>レイテ湾攻撃部隊が主力艦隊で、台湾沖出撃部隊というのは、あたかも自分たちが主力のように見せかけ、敵の攻撃部隊をレイテ島から引き離そうとする(おとり)であった。

 途中、フィリピンの峡海を通過する時である。敵の艦載(かんさい)(き)30機の襲撃を受け、戦艦「武蔵」が集中攻撃を受けた。この海峡は(はば)2百(メートル)(ほど)、その峡海を通過中、敵機約30機が「大和」「武蔵」に襲いかかって来た。実に突然であった。というのは、海峡のため(み)(とお)しが効かない。右側の山影より突如、撃ってきた。そして頭上から爆弾投下、我が方はなすすべもない。特に「大和」「武蔵」に集中攻撃である。

 両艦の高角砲、機銃が、火樽の如く全身より火を噴いた。でも如何せん、狭海のため体をかわす余裕がない。数発の直撃弾を受け「武蔵」は炎上した。敵機は尚も集中攻撃、敵機10数機が落下したのを見た。30分間程の出来事である。戦艦「武蔵」はとうとう沈没した。我が海軍の自慢のひとつ、不沈艦といわれた戦艦「大和」「武蔵」、その1隻が早くも敵機のエジキとなったのだ。そして乗組(のりくみ)2千人のうち大多数が戦死した。一部は駆逐艦が救助した。でも、我々の目的は太平洋上にある敵の大艦隊撃減にある。士気を鼓舞(こぶ)し、太平洋に出た。

 未だ敵艦見えず、我が艦隊は戦艦「大和」を中心に「金剛」「長門」等………百何十隻の部隊だ。(まさ)威風堂々(いふうどうどう)、太平洋上(せま)しと快進撃、敵艦船部隊を求めて突進した。その時の光景は実に見事であった。これぞ海の男が体験できる力強き勇姿である。どの方向へ進んでいるのか、サッパリ分からん。太平洋の只中(ただなか)である。

 数時間がすぎた。と突如、敵弾が我が『矢矧』の右側100メートル(ほど)の海面で大きな水柱をあげた。しかし、敵艦はまだ見えない。2発3発次々に水柱の物凄さ。でも我が方は、まだ1発も発砲していない。私は艦橋近くで待機していた。

 その時、砲術長の声「1、2番砲、発砲用意……」と命令した。そして、つづいて「魚雷発射用意………」の号令。でも敵艦見えず、艦橋では電波探知器で敵の位置は分かっているのか。敵弾が飛来する距離からみて、遠くではない様だ。敵弾はますます数を増し、我が艦隊の右に左に物凄い水柱を立てている。我が方からは未だ発砲しない。

 その時、戦艦「大和」の45センチ砲(3連装)が一斉(いっせい)に火を噴いた。そして重巡の主砲も火蓋(ひぶた)を切った。(すさ)まじい光景である。全艦全速力だ。敵は何処(いずこ)、未だ見えない。    

 すると、本艦の魚雷が発射された。「敵艦見ゆ」見張員の声だ。「左15度、8千(メートル)」という。

 その時、敵の駆逐艦が2隻、左前方に現れた。その艦からは、一斉(いっせい)に我が『矢矧(やはぎ)』を目指して発砲している。敵弾は右に左に水柱の凄まじさ。我が『矢矧』はまるで水柱の中だ。

 <欄外の記録>敵の駆逐艦は4千トン級、大砲も20センチ砲(3連装)9門を搭載している。『矢矧』は軽巡洋艦ながら15センチ砲(2連装)6門であった。射程距離も20センチ砲で1万メートル、15センチ砲で8千~5千メートルである(命中率からいう)。

 測的員の報告距離は7千メートル、本艦は未だ発砲しない。距離6千メートル、その時はじめて「射方始メ」の号令一下、我が15センチ砲4門が同時に火を噴いた。 測的員が「敵1番艦に初弾命中」と報告した。と同時に敵の発砲がピタリと止まった。2弾、3弾と発砲した。

 「敵艦炎上」と見張員の声。

 「射方止め」の号令。

 2隻の敵駆逐艦は黒煙につつまれていた。すると、1隻から、ボートが降ろされているのが見えた。乗組員がボートに乗り移っている。他の一隻は沈没してしまった。本艦はその方には目もくれず、全速力で突進している。まだまだ敵の主力艦隊が近くにいるのであろう。しかし、その後も敵艦は1隻も見えなかった。最早(もはや)戦闘は終ったのか全艦発砲していない。(ただ)前進をつづけているのみだ。

 敵艦は殆ど沈んだという。その時の戦果は空母2隻、戦艦1隻、巡洋艦4隻、駆逐艦4隻とのことであった。でも、我が方も巡洋艦2隻、駆逐艦4隻等の損害を受けていた。でも、戦闘は我方の勝利である。

 本艦も至近弾を受け、前甲板(まえかんぱん)に大穴があき、15度(ほど) 斜いた。でも航行には支障ないとのこと。また敵機の来襲で機銃員等40名程の犠牲者を出した。

 戦いすんで日が暮れて、我が艦隊は沖縄へと直行した。その間、戦死者を水葬するので、全員(じょう)甲板(かんぱん)に集合、艦長以下整列、毛布にくるみ、太平洋上へと葬った。この時は本当に涙が出た………。

 後で気がついたのだが『矢矧(やはぎ)』の上甲板は文字通りの血の池であった。私はこれを見て、これが本当にこの世の地獄絵だと思った。

 その夜は沖縄で仮泊、翌早朝、艦隊を再編成し、我が『矢矧』は「大和」「長門」等を護衛して、内地に帰ってきた。これ、昭和19年8月○日の台湾沖海戦である。

 <大澤氏の欄外のメモ>戦艦「大和」「長門」「金剛」等を護衛して帰る途中、沖縄と台湾の間を通過中、敵潜水艦の襲撃を受け、「金剛」が沈没した。真夜中の事であった。 

 その後、内地で艦隊整備(呉軍港)中も敵機来襲。 我等上陸中で、空襲警報発令。急ぎ帰艦する。呉港在泊中の巡洋艦「若葉」等が港内で撃沈された。

 この頃であったと思う。敵潜水艦からの怪電波が流れ、日本海軍の誇る不沈艦「大和」と快速艦『矢矧』を沈めたら戦争は終わるとのデマ宣伝をしたという。

 それから数日後、呉港外、柱島に碇泊中の戦艦「(む)(つ)」が原因不明の自爆を起し沈没するという事件があった。 『矢矧(やはぎ)』は、その後、急ぎ佐世保に直行、次の○○作戦に備え、艦体整備にかかる。

 その頃、敵艦船部隊は沖縄に上陸、各地で激戦が展開されていた。この頃は、日本海軍の主力艦隊は各所で打撃を受け、残り艦船も少なくなっていたのである。最早(もはや)、敗戦の色濃い頃であった。

 本土の主要都市は次々爆撃され、(いた)る所が焼け野原となり、国民は本土決戦に備え、竹槍のケイコ、女子供に至るまで決死の覚悟であった。しかし、大本営の発表は(ただ)皇軍の戦果のみ。国民の戦意を鼓舞(こぶ)していた。

 そして、昭和20年の正月を迎えた。

 戦火は益々急を告げる頃である。

第4章  巡洋艦『矢矧(やはぎ)』沖縄戦の記録(昭和20年4月)

 昭和20年4月、我が『矢矧』は沖縄決戦に特攻隊として出撃の命を受く。

 『矢矧』はその時、呉軍港に在泊中。昭和20年4月4日、戦艦大和を主艦とする沖縄特攻隊の(めい)(くだ)る。

 その夜、「大和」『矢矧』、駆逐艦6隻からなる日本海軍最後の健在艦隊は静かに呉港を出発した。兵員の被服その他、不必要な物件はすべて呉港で陸揚げ、身軽な艦隊。重油とて満載していなかったという(後で知る)。

 途中、大分県の○○沖合いに仮泊したその頃、敵潜水艦は豊後(ぶんご)水道付近まで出没し、我が艦船の航行を見当次第攻撃すべく接近していた。

 わが特攻隊は、その夜、全員、酒・菓子等の配給を受け、今度は到底(とうてい)生きては帰れない。燃料も沖縄に行くまでの必要量しか補給していないとのことである。いよいよ 最後の御奉公の時が来たと思った。

 艦長より今夜は充分飲んで休めとの伝言であった。乗組員は(これ)が最期だ。みんな心おきなく飲んで騒いだ。そして夜半頃、寝に着いた。勿論、ハンモック等も持っていない。

 いつしか夜も明け、出港準備。鹿児島沖へと向かった。時に4月6日、その夜は一応、鹿児島指宿(いぶすき)沖に仮泊した。そして夕食が出た。赤飯である、好物だ。その時も一合当の配給があった。これが最期だ。一同乾杯した。そして万歳を三唱した。みんな寝ようとする者がなかった。

 その夜の明け方、4時出港準備、(これ)から目指す沖縄へ。特攻隊の任務は重い。夜も明け渡り、朝食もすんだ。午前9時頃であった。上空に護衛機が3機、鹿ノ屋航空隊からである。「貴艦の武運を祈る」との信号を送ってきた。お礼の返信、その後も1時間程、護衛して(く)れていた。<午前>11時頃である。全員昼食を終えた頃、上空の護衛機より「我、燃料少し、帰還する」との信号を残して雲間(くもま)に消えて行った。

 その後である。艦橋の見張員が大声で叫んだのだ。私は丁度(ちょうど)その時、艦橋の電話器の修理に行っていた。「敵機、左20度、高度2千メートル。こちらへ向かって来る」との報告。砲術長が(すぐ)に対空戦闘用意と号令した。私は急ぎ配置に戻った。

 みれば約30機、我が方に向かって来る。機銃及び高角砲が一斉に火を噴いた。主砲も発砲している。勿論、その頃は射程距離ではない。威嚇(いかく)射撃である。しかし、敵機は益々近づいて来る。この時は艦の隊形も乱し、全艦ジグザグ運転。遥か向うの方では「大和」の全機銃(数百基)も火を噴き、艦全体が火の玉の様であった。敵は艦上雷撃機。近くに母艦が居たのだろう。黒いカタマリとなって「大和」に襲いかかっている。

 こちらも10機程が本艦に襲いかかっていた。右前方千(メートル)程の距離から海面すれすれの低空で魚雷を発射するのを見た。敵も中々勇敢であった。本艦に魚雷命中。上からは爆弾投下してくる。最早(もはや)絶体絶命だ。魚雷一発、前部機械室に命中したのだ。艦が大きく振動したと同時に15度程右に傾いた。又、命中した。同じ附近である。

 私は上甲板の艦の中腹より一寸(ちょっと)後部の(ところ)に居た。頭からどうっと海水をかむった。この時、本艦搭載の魚雷塔に弾片が命中。魚雷に充填している圧搾(あっさく)空気が爆発し、塔内にいた4人が即死。一人は火だるまとなって自分の横を去り抜け、海中に飛び込んで行った。寸時の出来事である。もう一人は右足の付根(つけね)から切断された。足と共に自分の側に横たわっている。私は思わず目をつむった。その時はもう敵機も去っていた。

 でも本艦は主機械をやられて艦は動かない。近くにいた駆逐艦がいたわる様に『矢矧』に接近して来る。本艦の参謀本部を移乗させるためであった。

 やがて駆逐艦も離れて行った。他の艦も「大和」を始め健在である。本艦だけやられていたのだ。

 それから30分とたたなかったと思う。又も敵機来襲。又々(またまた)30機程であった。その大部分が「大和」目がけて集中攻撃している。中の1機が先程の様に低空で『矢矧』目がけて魚雷を発射した。動かぬ艦だ。間もなく命中した。その時、私は目の前が真暗(まっくら)になった。やられた………と思った。しばらくして気が付いた時は泳いでいた。ァ………助かったと思った。『矢矧』は次第に沈んでいった。私は無意識の内に泳いでいた。艦の反対方向へ……3百メートルも離れたかと思う頃、『矢矧』は赤い艦底を見せて横倒しとなり海中深く沈んでしまった。この時、私は泣いているのに気付いた。轟音(ごうおん)を残して。……… 

 <米空軍機の空襲を受け沈没する矢矧> 引用はWikipediaより

 その頃、「大和」も遥か水平線の彼方で黒煙物凄く炎上していた。しばらくして一際(ひときわ)大きな火柱が上がった。と同時にあの大きな鉄の島<全長263m、幅39m>、不沈艦として建造された戦艦「大和」も真黒い煙を残して沈んで行ったのだ。誠に見るもあわれな最期であった。その頃は(も)(はや)、敵機の影はなかった。

<大澤氏メモ書き> 矢矧も魚雷7本程命中したのを覚えている。爆弾も数発命中した。本艦が一番先に沈没、そして大和。護衛していた駆逐艦も3隻が沈没。1隻が大破、2隻は小破。この1隻が我々を助けに来た。戦艦大和には数十発の爆弾と数本の魚雷が命中したとの事であった。最後、一番砲塔下の火薬庫に誘爆して沈没したようである。

 本特攻隊に参加した総兵約5200人。その中、助かった者、約千人足らず。私もその中の一人である。

 私は円材につかまり泳いでいるのだ。自分も今はあわれな身。全艦全滅したのか、艦らしき姿は見えない。右を見ても左を見ても島影すら見えなかった。最早(もはや)これまでかと思った。その頃、右足が痛むのを感じてきた。怪我をしている様である。しかし見る事もできない。一本の丸太ん棒を命の綱としてしがみついていたのである。

 もう何時だろうか。この時かすかに爆音が聞こえて来た。敵か味方か………。(しばら)くすると水上機が1機(はる)か 彼方に着水しようとしているではないか。敵機だと思った時、突然機銃の音。ダダダダ………とそして頭上を一発、ヒユウーンと言う音を残して飛んで行った。機上より我々浮泳している兵を目がけて掃射して来た。思わず 海中にもぐった。ものの5分程だったと思う。やがて水煙を残し、飛び去った。ホットした。

 南の海とは言え4月の初旬である。寒くなって来た。 ああ、このまま硬直して沈んでいくのではないかと思った。しかし気はまだまだ確かだ。日も大分、西の方に沈んでいる。どうやら薄暗くなって来た様に感じた。

 その時である。(まさ)に天の助けか、水平線上に艦の影が映った。しかし、敵か味方か分からない。次第に近づいて来る様だ。駆逐艦だ。しかも日本の艦だ。思わず、助かったと叫んだ。ぐんぐん近づいて来る。ボートが下りた。我々を助けに来て呉れたのだ。これで本当に助かったと思った。自分もその方へ泳いで行った。そして、ボートに救われたのであった。

 こうして数時間後、艦上の人となった。身体は大分(だいぶ)つめたくなっている。早速、機械室に入った。この時、自分が又々(またまた)助かったのだと思った。その時、急に足の痛さが増してきたのである。その事を乗組員に告げると、小さな医務室に案内してもらった。軍医に見せた(ところ)、右下腿部に摺傷(すりきず)があった。軍医が「なんだこれしきの傷が」と言ってヨウチンを一寸(ちょっと)つけて、「よりすぐ治る、心配するな」と言った。

 そして、(また)機械室に戻って座った。と同時に眠くなってきた。自分も大して傷も気にかけず、いつしか寝入っていた。無理もない。6、7時間も泳いでいたのだ。やがて誰かに起こされた。「おいもうすぐ佐世保に帰へるそうだ」と誰か言った。みんな如何にも嬉しそうな顔をしていた。きっと自分もそんな顔をしていたに違いないと思う。

 やがて艦が佐世保港に入港した。上陸する用意をしていた。(ふね)は止まった。しかし一行に降りる気配がない。陸上からの指令がないとの事である。朝食もせず9時頃まで待ったと思った。その時である。陸上でそれも海軍工場の中で爆発が起こったのである。おい、あれは何かと乗組員に聞いた。空襲警報が発令されたとの事である。上空を見たらB29が1機銀色の胴体を光らせてゆうゆうと飛んでいる。山の上から高角砲が発砲していたが何分(なにぶん)にも高度が高過ぎる。遥か下の方でサク(れつ)している。ゆうゆうたるものである。間もなく雲間に消えて行った。

 陸上では大分(だいぶ)被害があった様である。(後で分かった話では、女子艇身隊が工場で働いていた処へ投下され、多数死傷者があったとの事である)

 その内、我々も上陸。ひとまず全員、佐世保病院に収容された。この時、佐世保病院に収容された兵は『矢矧(やはぎ)』乗組員が2百人、大和の兵が4百人程、他駆逐艦の兵が数人いたと言う。

 一人一人身体検査があり、私は針尾の病院に入院する身となった。その頃には足も大分ハレて居り、骨が痛む様な気がしてならない。早速レントゲンにかかった。挫傷骨折と診断。すぐ佐世保病院に入院したのである。

 闘病生活が始まった。

 毎日毎日ベッドの上で、一人過ぎし日の出来事を思い出しては、今こうしているのが不思議で不思議でならなかった。いつの世にも、人間一人、いとも簡単に死んでいく人もいるのに、私は何回となく生死の境を彷徨しても死に(いた)らなかった。只々(ただただ)神の助けだと思った。

 今も沖縄本島では各地で決戦が展開されているのだ。 自分はこうしている間、何百人の国民が死んでいくのを思い、夜も中々(なかなか)寝つかれない。戦争と言う名の殺人鬼。一体だれがこの責任を負う(べき)か。何のために戦うのかと一人ひそかに思う時もあった。

 昔から伝統ある大日本帝国海軍の優秀な連合艦隊も、 今はもう残り少なく、米国を相手にする程の戦力もない。何年間、いや何十年耐え抜かれた優秀兵士も一瞬の(うち)に死んでいった。も(はや)、再起不能な状態である。

 では次に来るものは何か。本土決戦にいどみ、一億総自決か。(また)この辺で無条件降伏か。二ツに一ツしかない。(ただ)神のみが知る事であろう。

 やがて八月も中旬を迎えた。私の足も大分よくなって いた。今夜もどこかで空襲があったとか。その頃、私は佐賀県の武雄温泉にある海軍病院武雄分院に入院していた。そして、8月15日を迎えたのである。

 その時、私は11月15日まで帰郷療養の許可を受け、 (と)(かく)佐世保海兵団を出、故郷への途についたのだった。

 以下略す。

第5章  満州からの復員輸送(昭和20年11月)

終戦後、復員輸送船、乗組の記録

 昭和二十年十一月、佐世保海兵団は残務整理に忙しい。

私は11月15日、針尾残務整理事務所へ行った。 昭和20年11月15日、帰郷療養の期限切れのため、 佐世保へ行った。そこで兵役免除の手続きを取り、退職金を貰った(当時千円強)。その後、佐世保で職を探し、復員船に乗ることにした。

<註> 日本銀行の資料から計算すると、当時の千円は約20万円だが、物価上昇が激しく、終戦直後では約20~50万円であると思う。  

 その頃、佐世保に在泊中、第191輸送艦(二等駆逐艦を改装した復員輸送艦)に乗組となった。

 それから艦体整備も終わって博多港に向い、ここで朝鮮人を乗せ、釜山(ぷさん)に送り、それから満州のコロ島<葫蘆(ころ)島>に廻り、ここで内地帰還の軍人及び一般民を乗せて佐世保(また)は博多に帰へる。このコースを往復する輸送艦に乗ったのである。

この任務も楽ではなかった。私は早くも甲板下士官の責任ある任務を拝命。当時の内務省復員援護局の職員としての公務員である。

 乗組員は総員50名、私より上に艦長以下10名人、そして兵が約40人で輸送任務に当たっていた。

 その頃(勿論、終戦当時のこと)このルートは米軍が投下した機雷が沢山浮遊していた海域で、輸送中、何隻かの船が沈没していた。

<大澤氏の記録はここで終わっている。満州から100万人の日本人が帰還したのは、このコロ島からである。>

第6章  日米開戦前の訓練

昭和16年1月10日 佐世保海兵団入ル 

20才4ヶ月

4ヶ月第一海兵団にて新兵教育を受け、4月15日退団、軍艦葛城(かつらぎ)に乗る。我が葛城は航空隊専用の母艦で航空機の整備、搭乗員の休養等に使用されていた臨時母艦である。

昭和16年度の艦隊訓練航跡日記

昭和16年4月15日午前中。葛城(かつらぎ)乗組を命ぜらる
 4月29日佐世保港を出港す
 5月3日台湾高雄へ入港
  7日南洋委任統治のパラオ島に入港
  9日同、出港 約5日間航海がつづく
  13日トラック島に入港<パラオから東へ2千km>
  15日同、出港
  18日ウォッゼ島入港<トラック島から東へ2千km> 
 6月9日同、出港
  13日サイパン島に入港
  22日同、出港
  28日千葉県館山港に入港。同日、出港
  29日横浜に入港
 7月2日同、出港、台湾高雄に向かう
  5日高雄港に入港
  11日同、出港
  13日海南島三亜港に入港
 8月6日同、出港
  7日(フランス)印度支那(インドシナ)海防(ハイフォン)入港
  11日同、出港
昭和16年8月13日ベトナム西貢(サイゴン)入港
昭和16年8月16日同、出港。途中ハイフォンに寄り
  25日支那大陸の上海へ入港、4時間上陸
  28日同、出港し、揚子江を上る
  30日南京を通過し、同夜、安慶を経て
 9月1日漢口に入港 <現・武漢>
  6日同、出港。同夜、安慶に仮眠する
  7日南京に入港、翌日出港
  8日上海入口に1泊し、翌7時出発
  11日台湾、高雄入港
  13日同、出港。久し振り内地帰還の途に
  17日鹿児島湾古江港入港、同日出港す
  18日母港佐世保へ入港、上陸許可
昭和16年度第二期艦隊訓練を終了。 我等三等兵の楽しい休暇を許可さる。帰郷5日間。
昭和16年11月4日第三期艦隊訓練の途につく
  6日高雄入港
  10日同、出港
  14日パラオ島入港、3時間の上陸許可。
昭和16年12月8日太平洋戦争勃発。日本海軍の主力艦隊はハワイ攻撃に成功した。我が艦体はパラオ島に集結を急いでいた模様。航空隊はフィリピンのダバオ市街攻撃中。
昭和16年12月28日パラオ島出港し、フィリピンのダバオ港へ向かう。
  30日ダバオ港入港、戦果の後を上陸見学。
昭和17年1月8日同、出港。セレベス島のケマに向かう。
  11日セレベス島ケマ港入港
  14日同、出港。ダバオに向かう。
  16日再度ダバオに入港
  20日同、出港
  21日バンカ寄港後メナド入港。メナド市にも上陸す。
  26日同、出港。バンカ寄港しケマに向かう。
  27日ケマ入港。同日出発。バンカに向かう。
  28日バンカ入港、同日出港
  31日アンボン入港
 2月5日同、出港
  6日ケマ入港
  8日同、出港
この間、戦争は益々はげしくなり各地で戦果を揚げていた。(まさ)に破竹の進撃である。
 2月9日アンボン入港、3時間交代上陸す。
  19日同、出港
  23日クーパン入港
 3月1日同、出港。前7時30分。
昭和17年3月3日ケンダリー入港<セレベス島>
  16日同、出港
  19日ホロ入港、同日出港す
  24日<タイ>バンコック入港。水筒補給す。艦上にてバンコック兵の歓待を受く。
昭和17年3月27日コチシチヤンに(てん)(びょう)
  28日同、出港
  31日シンガポール入港
 4月1日同、出港
  2日マレー半島中程にあるペナン入港
  3日同、出港
  4日サバン島入港、約1ヶ月滞在、上陸許可
 5月10日同、出港
  13日シンガポール入港、3時間上陸許可
  14日同、出港
  18日高雄入港
  20日高雄出港
  25日館山入港
  27日同、出港。同日、横須賀へ寄る。
  29日横須賀港を出る
  30日伊勢湾に仮泊す
  31日串本湾入港
 6月1日同、出港
此の後、鳴門海峡を通り瀬戸内海を通る。途中、金比羅さんを艦上より拝する。その後、佐世保へ向かう。
昭和17年6月3日早朝、母港(佐世保)へ帰る。
第三期訓練を無事終了。艦体整備のためドック入。約2ヶ月の母港滞在を経て、再度南方作戦の準備完了。
昭和17年8月1日佐世保出港
  4日台湾高雄入港、同日出港。
  9日シンガポール入港。上陸許可。
この頃、私は横須賀海軍砲術学校入校のため葛城を退艦す。シンガポール警備隊に仮入隊を命ぜらる。その後、南方病特有のデング熱にかかり入院。帰国が遅れる。約10日間入院、内地帰国の便船の都合で退院。金剛丸に便乗す。途中、西貢(サイゴン)、高雄等帰港。9月5日佐世保に帰る。

第7章  会計簿

特別費

16年6月写真代円 銭 3, 13.-サイパン島に於て
11月1, 60.-髙雄
11月半皮代11, 00.-パラオ島
17年7月酒代3, 00.-髙雄
10月写真代15. 00.-佐世保
2月戦死者香典0. 30.- 
2月10日普通預金21. 33.- 
2月26日3. 51.- 
7月7日15. 00.- 
7月29日5. 00.- 
9月27日15. 00 
12月2日15. 00.- 
12月26日普通預金10. 00.- 
昭和17年2月55. 00.- 
9月15. 00.- 
9月25. 00.- 
11月21日10. 00.- 
6月19日60. 00.- 

昭和16年4月 永久保存

俸給の部     

昭和16年4月7円47銭加俸1円00銭靴修理代 報国貯金50銭
5月24. 79.-ボーナス含ム19. 54.-2円 酒保3.60.- 3円 酒保4.75.-
6月14. 40.-加俸 5円 〃 4.78.-
7月11. 50.-11. 58.-5円 〃 2.98.-
8月11. 50.-13. 55.-2円 〃 6.07.-
9月11. 50.-8. 25.-2円 〃 5.18.-
10月11. 50.-5. 40.-2円 〃 7.88.-
11月11. 50.-11. 10.-2円
12月11. 50.-ボーナス共20. 88.-4円 〃 4.03.-
11. 50.-加俸10. 87.- 
昭和17年1月27. 17.-加俸 〃 7.40.- 〃 7.40.-
2月26. 54.-  
3月27. 53.-厠手当1. 30.-5.30.-
4月 ボーナス15. 08.-4.31.-
 27. 70.-厠手当2. 30.-戦給費2円00銭
5月27. 55.-  6. 50.-
6月19. 55.-ボーイ手当1. 00.-4. 42.-
 ボーナス16. 00.-5. 80.-
7月14. 55.-且シ15日分加俸共餞別30. 50.- 、靴修繕代50.-7月17日本艦退艦ス、シンガポール仮入隊

 解 説

 金光教豊中南教会長 水野真信 

 大澤栄一氏は大正9年9月21日、四国の西の端、愛媛県北宇和(きたうわ)遊子(ゆす)村津之浦に生まれた。

 終戦後は、昭和21年9月、佐世保第二復員局を退官。同月、静子夫人と結婚。昭和22年、地元宇和海(うわうみ)村役場の書記となり、昭和29年に助役。昭和33年、町村合併の為、退職。大阪へ転居した。戦争で身体(特に肺)を痛め、仕事がこたえたという。昭和54年12月21日、59歳3ヶ月で帰幽された。

 さて、これから大澤氏の体験記を振り返ってみたい。

 その前にまず、軍事用語から簡単に説明する。

魚雷(ぎょらい)」は、海中を航行するスクリューの付いた爆弾である。砲弾が艦上の戦闘能力を奪うのに対し、魚雷は船底(ふなぞこ)に穴を開け、沈没させることを目的としている。

 同じ爆弾が艦に当たっても、空気中の場合は、爆発エネルギーの4分の3が船外へ逃げてしまうが、海中の場合は、破壊力が倍加される。さらに、魚雷に含まれる火薬の量は、砲弾の10倍はある為、その破壊力は凄まじく、魚雷が2発でも当たれば全長100mの船は簡単に沈んでしまう。  

 なお、魚雷の破壊力がなぜ倍加されるか、関心のある方は、追補(1)を参照して頂きたい。

(第二次世界大戦当時、魚雷の一般的な大きさ)

 航空機搭載用駆逐艦搭載用
直径45cm61cm
全長5.3m9.0m
重量848kg2,800kg
炸薬量235kg480kg
速度(時間)78km96km

 続いて、「戦艦(せんかん)」「駆逐(くちく)(かん)」「巡洋艦(じゅんようかん)」だが、これら三つをまとめて「軍艦」と呼び、どれも砲台(戦闘能力)を備えているが、その中でもとりわけ艦体が大きく、砲の数・威力とも強大なのが「戦艦」である。

 次に、小型・高速で、魚雷を装備しているのが「駆逐艦」。そして、駆逐艦より大きく、船としての性能が最も優れているのが「巡洋艦」である。

 なお、「駆逐艦」は建造費が比較的安いため、数で言えば一番多く、「巡洋艦」は高性能であるため、艦隊の司令部が置かれることもある。

 戦艦「大和」駆逐艦『江風(かわかぜ)巡洋艦『矢矧(やはぎ)
全長263m111m174m
乗員数3,332名226名730名

 ついでに、「連合艦隊」は日本海軍であり、「連合軍」は主に、米・英・蘭・豪・ニュージーランド軍を指す。

(1)日米開戦

 大澤氏が佐世保海兵団に入団したのは昭和16年1月、わずか20才4ヶ月の時であった。入団後4ヶ月間、新兵の教育を受け、同年4月より軍艦葛城(かつらぎ)に乗り組んだ。この軍艦葛城は、正式には外国航路用の大型船を擬装(ぎそう)した特設航空機運搬艦『葛城(かつらぎ)丸』である。

 日米開戦後、大澤氏はフィリピンのダバオ、インドネシアのメナドへの、航空機・物資の輸送に従事した。この地域を日本軍が押さえた理由は、当時オランダ領であったジャワ島、スマトラ島で産出される石油や天然ゴムの安全輸送の確保にあった。

 昭和17年1月、メナドの近くのケマ港で物資を(おろ)していると、近くの「金山丸」が敵の魚雷で撃沈。10分後、8千トン級の『(かつら)(ぎ)丸』にも直径90センチの魚雷が(せま)るが、艦橋(かんきょう)見張員の機転で、間一髪(かんいっぱつ)命中はまぬがれた。

 艦橋とは、船の一番高い所にあり、艦長や操舵士(船を操縦する人)のいる所である。『葛城丸』の艦橋の高さは、恐らくビルの8階ぐらいはあろう。見張員(みはりいん)はその位置から時速80kmで海中を航行する一本の魚雷を発見し、しかも投錨(とうびょう)中にもかかわらず魚雷をかわしている。

 この時、魚雷をかわせたのは、①近くの金山丸が先に撃沈し、警戒していたこと、②海が荒れていなかったこと、③文字通り見張員がすばやく機転をきかし操舵したこと等が幸いした。

 その後、大澤氏はインドネシアの海域を主に、タイ、マレーシア、日本、台湾と航海し、7月には軍命により『葛城丸』を退艦。横須賀で4ヶ月間、砲兵の訓練を受けた。

 『葛城丸』は大澤氏が退艦して3ヵ月後の10月1日 午前5時36分、敵潜水艦の魚雷3本を受けて沈没。大澤氏は『葛城丸』で二度命拾(いのちびろ)いしている。

(2)駆逐艦『江風(かわかぜ)』、ソロモン諸島で沈没

 砲兵の訓練を受けた大澤氏は、昭和18年5月から海軍二等兵曹(へいそう)として、駆遂艦『江風(かわかぜ)』の乗組員(のりくみいん)となり、ソロモン諸島へ派遣された。日本海軍の兵士下士官の階級は、昭和17年以降、上から、上等兵曹、一等兵曹、二等兵曹、兵長、上等兵、一等兵、二等兵である。二等兵曹は下士官にあたり、部下数名から10名の指揮にあたる。

 さて、大澤氏がソロモン諸島へ派遣された背景について触れる。日本軍は、昭和17年1月、ソロモン諸島の北西、ラバウルに日本兵9万人を駐留させる大要塞を築いた。この地域の戦略的な目的は、アメリカとオーストラリアとの交通遮断にあり、オーストラリアの孤立を目的とした。 

 これに対して、アメリカ・オーストラリアの連合軍は、ラバウルへの直接攻撃ではなく、周囲から攻める戦略をとった。この為、ラバウルの東側にあたるソロモン諸島は、太平洋戦争有数の激戦区となった。

 『葛城丸』が敵潜水艦に沈められたのはこの海域で、上の地図中ショートランド島からラバウルへ航空部隊4百名を輸送中のことであった。また、2万5千人が戦死・餓死・病死したガダルカナル島もこのソロモン諸島にあり、山本五十六(いそろく)連合艦隊司令長官が戦死したのも同諸島ブーゲンビル島上空である。

 時間で整理すると次のようになる。

昭和17年1月日本軍、ラバウルを占領
昭和17年10月葛城丸の沈没
昭和17年8月ガダルカナル島、戦闘開始
昭和18年2月ガダルカナル島、日本軍敗退。
昭和18年4月山本五十六、戦死。

 以上、読者に馴染みのある事例を列記したが、ガダルカナル以後は連合軍の優勢が確立しつつあった。

 この流れで、昭和18年8月3日、連合軍(米・豪・ニュージーランド)がソロモン諸島ニュージョージア島の飛行場を占領した為、東側にあるコロンバンガラ島の日本軍飛行場が無力化する恐れが出てきた。そこで、ラバウル基地から乗組員(のりくみいん)700名、陸兵940名、物資50トンを載せ、コロンバンガラ島へ向かったのが4隻の駆逐艦、「萩風(はぎかぜ)」「(あらし)」『江風(かわかぜ)』「時雨(しぐれ)」である。時、8月6日の深夜である。

 しかし、翌8月7日、アメリカ軍の偵察機は早くもこの動きを発見。その夜、日本側は、敵の駆逐艦6隻に待ち伏せされた。そして、到着まであとわずかという時に、敵の夜間レーダーに(とら)えられ、先頭を航行していた「萩風(はぎかぜ)」の見張員(みはりいん)が言葉にならないような声を発した時には、無数の魚雷が横一列に迫り、「萩風」には2本が命中、大爆発を起こした。これが大澤氏の目撃したときの状況である。

 『江風(かわかぜ)』では、魚雷が大澤氏の足元で爆発し、大澤氏は左腕から左脚にかけて火傷(やけど)を負ったが、重症はまぬがれた。海に飛び込むと、(ふね)が沈む時の大きな渦に巻き込まれ、数分間海中に引きずりこまれた。通常、(ほとん)どの兵士がこの(うず)に巻き込まれて海底に沈むのだが、大澤氏は意識を失う寸前で奇跡的に海面に上がっている。大澤氏が助かったのは、砲撃手で甲板(かんぱん)にいた為、早めに逃げることができたこと、班長の退艦指示が早かったこと等も幸いしている。

 沈没後の大澤氏は、徹夜で飲まず食わず、島影(しまかげ)ひとつ 見えない敵の海域を、たった一人、板切れ一枚で漂った。「萩風(はぎかぜ)」の生還者(津田貞義氏)によると、海水は冷たく、遭難の翌日には、戦友が力尽きて海底に沈んでいったという。大澤氏は丸一昼夜 (静子夫人は40時間漂流したと聞いている) を(へ)て、偶然にも島へ漂着できた。もし、漂着があと3時間でも遅れれば、力尽きて海底に沈んだかもしれず、また重症なら板につかまることさえできなかったはずである。そして何より、サメの多い、敵の海域で、よく海流が生きて島まで運んだと思うと不思議でならない。

 大澤氏が漂着した島(ソロモン諸島のベララベラ島)には、300名ほどの遭難兵がおり、この中には駆逐艦4隻の司令官(杉浦大佐)や『萩風』の艦長もいた。司令官のそばにいた津田貞義氏の記録と、大澤氏の記録、そして『The Pacific War Online Encyclopedia』とアメリカ海兵隊の記録(英文)などから、大澤氏滞在中の足取りを追ってみる。

 ベララベラ島は深いジャングルに覆われ、長さ42km、

 幅19km。標高400~800mの山がいくつもあり、歩行は困難を極めた。(わず)か10mの歩行に数時間を要することが何度もあるというから想像がつくであろう。

 この深いジャングルのため、大澤氏には知るよしもなかったが、実は大澤氏が8月7日に漂着し、海岸線を時計回りに通過した直後と思われる8月12日から17日にかけて、アメリカ・ニュージーランドの連合軍6,505人が、この島の南東部に上陸している。

 大澤氏の目の前で、何人もの仲間が銃撃された背景には、このような敵の上陸があり、しかも大澤氏たちの居場所は、連合軍6千の拠点からわずか12~15kmしか離れていなかったのである。

 大澤氏ら遭難兵たちは、食糧を求めて島を移動し、食べられるものは何でも食べたという。大澤氏の「手の火傷(やけど)化膿(かのう)して……自分の手かと疑う(ほど)、変りはて…」という箇所だが、静子夫人によると、痛みを覚えたときには蛆虫(うじむし)がわき、(あわ)てて海水で洗ったという。

 大澤氏が島を脱出したのは、漂着して17日目の8月24日。そして、9月14日には、島の北東部で連合軍6千と日本の守備兵6百人(←遭難兵とは別)が交戦し、日本側は多勢に無勢で、島の北西部に追いやられ、10月6日、同島を撤退している。

 なお、大澤氏が遭遇した偵察隊52名の任務は、上陸した6千の敵情視察のほか、遭難兵の救出もあったことを付け加えておきたい。

 大澤氏はこの島でも度重なる幸運が続いた。

 漂着後、現住民に助けられたが、場所がフィリピンであれば間違いなく殺されていたであろう。連合軍(米・豪・ニュージーランド)との遭遇も、ちょっとした時間のズレと、深いジャングルのおかげで(さ)けられた。島の面積(長さ42km、幅19km)と深いジャングルを考えると、ラバウルからの偵察隊と遭遇できたのはほぼ奇跡に近いが、逆に、敵6千の基地から近かったから偵察隊と遭遇できたとも言える。敵の魚雷艇が警戒している海域で、脱出できたのも幸運であった。そして、約3百名の遭難兵のうち、救助艇に乗れたのは大澤氏を含め約2百名あまり。残りはジャングルを先へ進んだり、はぐれたりして、救助艇の来ることさえ知らなかった。大澤氏ほか遭難兵の移動は、「萩風」の艦長(馬越正博少佐)が腕の方位磁石で導いていたのである。

 ベララベラ島から帰国した大澤氏は、半年後の昭和19年5月、軽巡洋艦(じゅんようかん)矢矧(やはぎ)』の乗組員となる。遭難記だけでも立派な一つの物語になるが、大澤氏の体験記はさらに続く。

(3)レイテ島沖海戦

 大澤氏が(けい)巡洋艦(じゅんようかん)矢矧(やはぎ)』の乗組員となって2ヵ月後の昭和19年7月には、絶対国防圏であるマリアナ諸島のサイパンが陥落した。この防衛線が突破されたことで、本土が爆撃の危険にさらされ、東条英機内閣はこの責任を取って総辞職した。

 サイパンに続き、もしフィリピンまで奪還されると、南方資源の安全輸送が確保できなくなるため、日本軍は陸海(りくかい)総力を挙げてフィリピンの防衛にあたった。昭和 19年10月のことである。

 決戦の舞台がレイテ島になった理由、および僅か11ヶ月の(あいだ)、レイテ島だけで8万人が戦死した経緯(いきさつ)については「追補(2)レイテ島の戦い」(P87)を参照して頂きたい。 

 レイテ作戦の目的は、フィリピン中南部(特にレイテ島)に上陸しているアメリカ軍の殲滅(せんめつ)であった。レイテ湾突入に際し、日本海軍は4つの部隊に分けた。

 まず、航空部隊(小沢中将)をルソン島の北東から攻めさせ、あたかも日本の主力艦隊と見せかけて敵をレイテ島から引き離そうとした。これが大澤氏の言う台湾沖攻撃部隊である。

 一方、主力となる栗田(くりた)艦隊(大澤氏は栗田艦隊に所属)はレイテ島の北方から、西村艦隊と志摩(しま)艦隊は南方から 航行し、レイテ湾で合流する計画であった。  

 しかし、栗田艦隊はレイテ湾手前で引き返し、西村艦隊の後を追った志摩艦隊も途中で引き返した。結果、西村艦隊は単独、レイテ湾に突入した。(上の地図参照)

 迎え撃つ連合軍の戦力は、マッカーサー率いる第7艦隊だけで、その兵力16万5千人。攻撃戦艦157隻に輸送船も含めると計734隻。

<戦力の比較>

 日本軍連合軍
空母4隻157隻
戦艦9隻
巡洋艦14隻
駆逐艦36隻
魚雷艇・潜水艦0隻

 結果、敵の圧倒的な戦力の前に、日本海軍は袋叩きに遭い、この3日間の海戦で失った軍艦は、航空母艦4隻、戦艦3隻、巡洋艦6隻、駆逐艦11隻。戦死者は7,475名にのぼる。

 単独レイテ湾に突入した7隻の西村艦隊は、敵の軍艦79隻、航空機180機に待ち伏せされ、駆逐艦「時雨(しぐれ)」を残して6隻が沈没。全滅した。

 何事にも鉄則というものがあり、戦争における鉄則は、攻撃は必ずまとまって一気に行い、戦力の逐次(ちくじ)投入は絶対にしてはならないのだが、このとき西村艦隊は、粟田艦隊とレイテ湾で合流することを約束していた為、結果的に単独で突入した。

 また、物事の成否は、意思の疎通がどれだけ正確に図られるかで大きく左右されるが、このときは艦隊同士の連絡が全くと言っていいほど取れていなかった。無線が島に邪魔されたのかもしれない。

 そのため、志摩艦隊は戦況不明で引き返し、さらに栗田艦隊も3日間敵と交戦したが、結局、目的地のレイテ湾には突入せず、引き返している。

 大澤氏は栗田(くりた)艦隊に属していた。33隻(ひき)いる栗田艦隊は、沈没8隻、大破1隻、うち戦艦「武蔵(むさし)」まで失った。

 『矢矧(やはぎ)』は沈没こそまぬがれたものの、海戦の二日目には敵艦載機(かんさいき)度重(たびかさ)なる急降下爆撃に遭い、右舷(うげん)艦首の水面 すぐ上に直径4m、その付近の舷側(げんそく)に大小無数の(は)(こう)をあけられ、浸水の危機に瀕した。しかし、応急指揮官が十数時間不眠不休で修理を行い、海戦の三日目にのぞむことができた。これが大澤氏の記録する「本艦も至近弾を受け、前甲板に大穴があき、15度程斜いた」時の状況である。

 『矢矧(やはぎ)』は、翌三日目も航空機による(すさ)まじい機銃(きじゅう)掃射(そうしゃ)を浴び、破損箇所は大小合わせて一千を越えていたという。戦死者47名、重軽傷者97名を出し、(ふね)が傾斜するたびに大量の血が右へ左へと流れ、飛び散った肉片と火薬が混ざり、すさましい臭いだったという。これが「(じょう)甲板(かんぱん)は文字通りの血の池であった……これが本当にこの世の地獄絵だと思った。」という箇所である。大澤氏は被弾の確率の高い砲撃手であったが、ここでも一命は取り留めた。

 ここで待ち伏せされた西村艦隊の戦況を一部紹介する。

 戦艦「扶桑(ふそう)」(全長205m)は、想像を絶する被害を受け、弾薬庫の爆発により艦体が真っ二つに折れた後、艦首も艦尾も炎上、全艦火だるまとなった。1時間以上浮遊していたにもかかわらず艦長以下1,637名全員が戦死、生存者は1人もいなかった。

 同じく戦艦「山城(やましろ)」も爆弾が司令部を直撃し、生存者は2名のみ。この両艦のみで乗組員(のりくみいん)3千余名中、生存者はわずか2名であった。

 他の艦でも、米軍に助けられようとした日本兵の多くは自決し、陸に泳ぎついた者も武器を持っていなかったため、現地人ゲリラに殺害された。味方の艦に助けられた兵は、フィリピンの陸戦にまわされ、9割以上が戦死した。

 なお、太平洋戦争で最も多くの犠牲者を出したのがフィリピンで、日本兵50万人。特に、レイテ沖海戦のあった昭和19年10月から終戦までの11ヶ月間、日本陸軍だけで32万人が戦死した。そのうち8万人がレイテ島で亡くなっているのだ。

 昭和19年10月23~25日のレイテ沖海戦が終わり、『矢矧(やはぎ)』はいったんブルネイの補給基地に向かった。

 大澤氏の記録にある「その間、戦死者を水葬するので、全員(じょう)甲板(かんぱん)に集合、艦長以下整列、毛布にくるみ、太平洋上へと葬った。この時は本当に涙が出た。」これと同じ場面が、一緒に航行した戦艦「長門(ながと)」の兵士も記録しているので紹介したい。  

 「戦い敗れて帰投(基地に帰ること)する気持は淋しかった。二十六日、水平線に夕日が沈む頃、水葬式を行なった。遺体を後甲板に安置する。髪の毛と爪を取って封筒に入れ遺品として残し、毛布三枚に包み、四十キロ 演習弾を抱かせ、五ヶ所を固縛して名札を付け、一体ずつスベリ台からブルーの海に落した。その中で一番哀れだったのは、日の丸に包んだ足首だけの遺体だった。爆弾で体は飛び散り、足だけが残ったのだが、(きゃ)(はん)動きやすくするために(すね)にまとう布)で五分隊の高橋兵長と判明した。この小さな遺体に涙が流れてならなかった。」

 その後、ブルネイの補給基地を出たのが11月15日。『矢矧』を先頭に、「金剛」「大和」「長門」の順で、帰国の途についた。しかし、11月21日午前3時前、台湾の北西約110kmを航行中、激しい嵐のうえ、敵潜水艦の魚雷を受け、戦艦「金剛」と駆逐艦「浦風」を失った。

 この時、敵の潜水艦は先頭を航行していた『矢矧(やはぎ)』を狙っていたが、より大きな戦艦「金剛」に狙いを変えた。「金剛」は魚雷を受けてから沈没まで逃げる時間があったにもかかわらず、艦長が損害を軽視し、総員退艦の判断も遅れた為、救出されたのはわずか237名。そして艦長以下1,300名が海底に沈んだ。これが大澤氏のP41「大澤氏欄外のメモ」にある「沖縄と台湾の間を通過中、敵潜水艦の襲撃を受け、金剛が沈没した。真夜中…」のことである。

 以上が、大澤氏の「レイテ沖海戦日誌」の舞台裏である。

(4)沖縄特攻

 いよいよ沖縄特攻である。レイテ沖海戦から帰国して4ヶ月後の、昭和20年3月末、連合軍の大艦隊が沖縄本島沖に集結した。対する日本軍の作戦は、これも今の我々には無茶な話であるが、戦艦「大和」『矢矧』も含め10隻の艦隊を沖縄本島に突入させ、(ふね)座礁させた 上で固定砲台として砲撃を行い、弾薬が底をついたら乗員(じょういん)陸戦部隊として敵に突撃をかけるというものであった。

 さらに、この日本海軍最後の艦隊には護衛用の航空機はつけられなかった。戦艦は航空機による攻撃には弱く、護衛用の航空機なしで飛び込むのは自殺行為に等しいのである。

 戦局の見通しは、沖縄周辺の制空権、制海権がアメリカ側にある以上、護衛用の航空機なしで沖縄へ到達するのは 不可能に近かった。この艦隊の司令官・伊藤整一(せいいち)中将は、「制空権制海権もなしの出撃は、沖縄に到達すべくもなく、それを承知の上で7千人の部下を犬死させる訳にはいかない」と最後まで反対したが、連合艦隊参謀長・草鹿龍之介中将の「一億総特攻の(さきがけ)となって頂きたい」との一言で作戦を承諾した。

 出撃前、大澤氏も聞いたであろう、『矢矧』艦長の訓示を引用する。「長官より興国(こうこく)荒廃(こうはい)、この一挙(いっきょ)に存ず。各員一層奮励(ふんれい)努力し、(もっ)て海上特攻隊の本領を発揮せよ。今から沖縄へ向け出撃する。敵艦船の中に突入し、沖縄の海岸に乗り上げ、陸の砲台となり最後まで弾をうちまくり、敵を撃減せん」。大澤氏が最後に臨んだ海戦は、文字通り命を捨てた特攻であった。

 日本海軍最後の連合艦隊は、昭和20年4月2日に呉港を出港。4月7日、鹿児島県(ぼう)(みさき)沖を航行中、戦艦「大和」(全長263m、幅39m、建造費は当時の国家予算の3%) が、アメリカ航空隊386機による猛攻撃を受けて沈没した。戦艦「大和」の大きさは、JR大阪駅のホームの(はし)から(はし)までが約260m、幅は大阪駅のホーム3つに線路4本を入れて約45mであるから、想像して欲しい。

 「大和」沈没の12分前、大澤氏の『矢矧(やはぎ)』は、直撃弾12発、魚雷7本を喰らって沈没した。

 この海戦で沈んだのは、10隻のうち戦艦「大和」、巡洋艦『矢矧』をはじめ6隻にものぼる。参加兵力は10隻で4,329名、平均年齢は27歳、そして戦死者数は3,721名にものぼった。

 大澤氏は、(ふね)が爆発した時「しばらくして気が付いた時は泳いでいた」という。通常、爆風や飛んできた破片で即死するところが、大澤氏は海に飛ばされて助かっている。

 大澤氏と同じ『矢矧(やはぎ)』の生還者、西 創一郎氏によると、爆弾が頭上に降りかかり、「もうこれまでか」と死を覚悟して伏せたら、弾は5m離れた煙突に入り、煙突が二つに割けただけで一命を取り留めたという。伏せた顔を上げると、顔半分と片腕を失った戦友が血まみれになって倒れていた。西氏が海に飛び込むと、海面は厚い重油で覆われていた。この時、重油に火がつかなかったおかげで助かり、さらに木材が浮いていたおかげで、泳げない人が助かったという。

 ここで、戦艦「大和」沈没時の状況にも触れておきたい。戦艦「大和」は、航空機からの魚雷9本(米国の記録では約30本。うち8本が左舷に命中)を受け、進行方向へ 向かって左側が傾き、そのまま倒れるようにして沈んでいった。艦が左に傾いた時には、落ちまいとする何百人もの乗員が、艦の右側の手すりにしがみついていたが(註)、殆ど助からなかった。艦が沈没する時には、傾いた方向から(下の写真では右側から)、海へ飛び込み、いち早く艦から離れないと渦に巻き込まれるのだ。右舷(うげん)の手すりに、(あり)のようにぶら下がっている兵士たちを見た上官は 「あの馬鹿者どもがー、渦に巻き込まれるぞお-」と必死に叫んだが、あの傾きで右から左へいけるわけもなかった。

 クロールで必死に泳いでいた3名の兵士は、ザバーッと海底に沈む巨大な煙突の中に飲み込まれていった。

 艦から離れて助かった漂流兵には次の悲劇が待ち構えていた。それは、大澤氏が見た「はるか水平線の彼方(かなた)で…一際(ひときわ)大きな火柱が上がった」時、戦艦「大和」は大爆発を起こし、無数の鉄片が空に舞い上がった。鉄片と言っても実際は鉄の塊である。そして、無数の鉄の塊が漂流兵の頭上を直撃した。『矢矧』の生還者によると、ある人は顔が大きくなったかと思うと、頭が真っ二つに裂けそのまま海底に沈んだ。またある人は鉄片が直撃してそのまま静かに沈み、またある人は落ちてきた鉄片で手足が切断され、おぼれて亡くなったという。

 鉄片の後は、大澤氏の記録する通り、敵機が漂流兵目がけて機銃掃射をし、さらにここでも兵士が亡くなった。

 話を『矢矧(やはぎ)』に戻す。

矢矧(やはぎ)』は午後2時05分に沈没。

『矢矧』の漂流兵たちは「4月初旬の水温の低い中、数時間漂流し、日が沈みかかった時には、まさに絶望した」という。そして、周囲が薄暗くなってきたまさにその時、 「(まさ)に天の助けか、水平線上に艦の影が映った」。

 大澤氏ほか『矢矧』の漂流兵たちが助かったことには、次のような人の働きがあったことを記しておく。

 一つ目は、『矢矧(やはぎ)』の艦長(為一(ためいち)大佐)と副長が、万一の沈没に備え、救命用に大量の木材を積載(せきさい)していたこと。足を負傷した大澤氏は、この木材のおかげでおぼれずに助かったのである。なお、大澤氏が駆逐艦「萩風」「嵐」『江風』「時雨」でコロンバンガラ島へ向かう途中、「萩風」「嵐」『江風』が沈んだが、沈没をまぬがれた「時雨」の艦長はこの原為一大佐である。

 二つ目は、敵の猛攻を受けながらも、味方の艦の誰かが『矢矧(やはぎ)』の沈没した緯度と経度を正確に記録していたこと。夕暮れのあの海域で人間を発見するのは不可能に近いのである。

 そして三つ目は、艦隊の司令官・伊藤整一中将が、戦艦「大和」がもはや復元不可能と知った時、残った艦に対し独断で「特攻中止、乗組員救助」を発令したこと。これは、今の我々には当たり前のように聞こえるが、作戦を中止する権限は軍令部か連合艦隊司令部にあり、現場の司令官にはないのである。その為、太平洋戦争の各所(かくしょ)で大量の戦死者を出したのである。もし伊藤中将が命令に従っていれば、仲間の艦(駆逐艦「(ふゆ)(づき)」)は沈められ、大澤氏が救助されることはなかったであろう。伊藤中将は艦長有賀大佐と共に退艦を拒否、戦艦「大和」と共に海に沈んだ。

 人が一命を取り留める時には、往々にして、自分では 気づかないところで、人が動いてくれているものである。

 以上で、大澤氏の戦跡は終わる。

追補(1) 魚雷の破壊力(編集者より)

<第1段階> 

魚雷が船底で爆発すると、まず強力な衝撃波が発生し、船底を直撃する。衝撃波というのは圧縮された空気の壁のようなもので、爆発すると近くの窓ガラスが割れるのは、この衝撃波による。

<第2段階>

そしてほぼ同時に、爆発で生じたガスが膨張する。この衝撃波とガスの膨張で船底が押し上げられる。

<第3段階>

しかし、膨張したガスはすぐに周囲の水圧で収縮する為、今度は逆に船底が引っ張られる。

<第4段階>

そして、収縮したガスは一気に船底に向かって噴流する為、再び船底は押し上げられる。噴流とは、銭湯のジャグジーを思い浮かべると理解しやすい。

艦上に落ちる砲弾は落下箇所のみ破壊するが、魚雷は、この第1から第4段階の過程が瞬時に発生する為、その 破壊力は凄まじく、さらに魚雷の火薬量が砲弾の十倍もあれば、たとえ長さ100mの駆逐艦とて1発で沈められてしまうのである。 

よく映画で、魚雷を喰らった潜水艦の電気系統が故障する場面があるが、これは衝撃波の凄さによる。

追補(2) レイテ島の戦い(編集者より)

作戦段階では、日本陸軍がフィリピン北部のルソン島を守り、海軍と航空部隊がフィリピン中南部(レイテ島)を 攻撃することになっていた。

陸軍兵士がルソン島に限定された理由は、もし陸軍兵士を中南部に投入するとなると、兵士を船で輸送しなければならない。フィリピンには島が多く、しかも制空権がアメリカに奪われている以上、どこで攻撃を受けるか見当がつかない。さらに、マニラからレイテ島までの航海距離は730kmもあり、兵士と補給物資を安全に輸送することは不可能に近かったからである。 

しかし、日本の新米(しんまい)航空兵たちの誤報が原因で、急遽(きゅうきょ) 作戦が大きく転換され、日本陸軍までレイテ島に投入されることになった。

この誤報というのは、レイテ沖海戦の4日前、昭和19年10月12~16日の台湾沖航空戦で、日本軍の戦果が敵の巡洋艦2隻の大破にもかかわらず、敵・航空母艦11隻、戦艦2隻を撃沈したという報告。日本の大本営は、「敵の戦力をこれだけ奪ったのであれば、レイテ島周辺の敵勢力は軽微である」と思い込み、陸軍もレイテ島に投入してこの際、アメリカ軍の完全排除を狙ったのである。

これに対して、フィリピンの陸軍司令官(山下大将)は 大反対した。現地では、飛来する敵航空機の数が減っていない為、虚報だと疑ったからである。日本側の戦力が(とぼ)しく、制空権が奪われている以上、マニラからレイテ島まで安全に兵員・物資を輸送するのは不可能だと判断したのである。

しかし、作戦は誤報を信じたまま進み、山下大将が危惧(きぐ)したことがそのまま現実となった。

レイテ島に輸送される兵士や物資は次々と沈められ、 島にたどり着いた兵士も敵の圧倒的な戦力の前に血煙をあげた。前線では食糧が枯渇し、非常に多くの餓死者も出した。このレイテ島では死亡率が異常に高く、どの資料を調べても、兵士の94~97%が戦死している。つまり、文字通り玉砕であった。

物事はちょっとしたことがきっかけで大問題に発展する。だから実意丁寧に小事をおろそかにしてはならないのだが、レイテ沖海戦・レイテ島の戦いでは、新米(しんまい)兵の誤報とその確認の怠り、戦力の逐次投入など色々重なり、結果、わずか11ヶ月の間で8万人が戦死したのである。そして、この11ヶ月の間、フィリピン全体では陸軍兵士32万人が戦死したのである。(終)

 あとがき

大澤栄一氏は、戦後、平和で豊かな生活を過ごせるようになってからも、戦時中の生死に直面したときのことや、戦友達の戦死が脳裏から去らず、また、戦時中と戦後の余りにも大きな違いを思って、平和を願うところから戦争体験記を書き遺されました。几帳面な性格の方で、原文には丁寧に書き記されており、一部は教会誌に掲載したこともありましたが、著者の平和への強い願いを受け、ここにまとめて掲載させて頂きました。 

さて、「まえがき」でも触れましたように、今年は戦後65年になります。戦後も争いは絶えず、手元の資料では戦後から2001年までの間に、世界で225の紛争が あり、約2,300万人が亡くなっています。その一方で、昨年2009年には、オバマ米大統領が「核なき世界」を提唱し、米ソ間の核保有量は、交渉において僅かではありますが削減されました。そして、今年2010年8月6日の広島平和記念式典には、国連事務総長ほか、米国の駐日大使や英仏の政府代表が初めて出席し、出席した国は 過去最多の74ヵ国に及びました。これは、核兵器廃絶の祈りと啓蒙活動を地道に続けてきた成果と言えるでしょう。

ただ、人間は難儀な存在で、争いは親子、夫婦の間でも起こります。起こしてはならぬと願っておっても起こしてしまうのが人間なのです。総氏子身上安全、世界真の平和を祈り続けると同時に、人間が持っている素晴らしい神心をいかに現わしていくか。それは一人ひとり、持ち場・立場・状況ですべて異なりますから、本稿では問いかけにして結びの言葉にしたいと思います。(おわり)